戦術、パート6

Maria
April 21, 2006

Table of Contents

GN 1173 FD/MM/FM

マリアFD/MM/FM 3590 2/06

[表紙のクオート:]

わたしの愛の妖精たちを呼び求める時、彼らはあなたを導く。ある妖精たちは近くにいる兄弟や羊たちをあなたのそばに引き寄せ、また、ある妖精たちは、他の人たちにわたしの愛を与えるためにわたしがあなたの前に置いた開かれた扉を通るよう、あなたの心と思いを絵像やある感情などで満たし始める。

親愛なるファミリーの皆さんへ、

  1.愛しています。そして、自分の霊的武器を「エクササイズ」して、それを巧みに使いこなせるように努力している皆さんのために祈っています。主は一人一人に、その鍛錬によって強められる素晴らしい機会が訪れるのを許しておられます。皆さんが霊的武器を使って、それらの戦いを、霊の内で強められるチャンスとして認識するようになることを、私は祈っています。

  2.今回の戦術の話題は、興味深い話題です。それは、どうやって真に「戦いを愛する」ことを学ぶかと、愛の律法に焦点を当てた武器です。

戦いを愛するようになれるだろうか?

  3.敵に攻撃されている時、または、ただ生き延びていくための霊的力やスタミナをことごとく消耗させるような危機的状況のまっただ中にいる時には、戦いを愛するなんて想像もつきません。たいていは、正反対の気がすることでしょう。戦いを憎み、毛嫌いし、できるだけ素早くその状況から抜け出たいと思うでしょう。

  4.けれども、有能な戦士となるための鍵は、戦いを愛するようになることだと、繰り返し主は言っておられます。ですから、私たちは主に尋ねました。「どうしたらダッドのように、真に戦いを愛せるようになるのですか。『戦いを愛する』の本当の意味は何ですか? それは気持ちや状況ですか? それなら、そうなるために、何をしたり、言ったりできますか? それとも、敵に攻撃されたり、わざわいがある時の一種の賛美のように、ただのポジティブな態度にすぎないのですか?」

  5.(ダッド:)あなたたちは絶対に「戦いを愛する」ようになれるよ。中には、より自然なことであって、そういう性格の人もいる。そして、他の人たちよりも、この「戦いを愛する」態度を持ちやすい。より果敢で、チャレンジや困難を克服することを生きがいにしている人たちもいる。彼らは、それが気持ち良くて、わくわくする。意欲をかきたてられて、その面で活発になるのが好きなので、霊的戦いを楽しみさえする人だ。彼らは生まれつきの競争者や攻撃者であって、言うなれば、そんな血が流れている。しかし、生まれつき、より穏やかで消極的な人たちもいる。または、どんな争いも恐れていて、人生のいかなる面においても、何であっても、全然楽しめない人たちもいる。

  6.しかし、あなたがどんなタイプであろうと、敵と戦うのを楽しめるようになれる。なぜか。私が地上にいた時に言ったように、あなたたちは自分たちが戦うだけの価値がある方と、戦うだけの価値がある魂や、到達するだけの価値があるゴールのために戦っているとわかっているからだ! 自分が正しい側にいて、神が味方していて、負けはないと知っているので、真に戦いを愛することができる。敵を負かすことができるとわかっているのだ。それは難しいチャレンジで、苦労も多いと知っているが、あなたたちが勝てることについては、何の不思議も疑問もありえない。

  7.自分は真理のため、正しい大義のために戦っていることを確信し、知っていて、自分たちは勝てるし、勝つのだと断言できるなら、戦いをエンジョイできる。大体誰でも、到達したい、成功したい、最良の者になりたいという願いが幾らかある。そうだろう? それも、戦いを愛することができるようになる要因だ。

  8.戦い自体は喜ばしくない時があっても、戦いを愛するようにさせるのは、自分は主のためや、到達するに値する目標のために戦っていると知っていることと、勝利への愛なんだ。私が地上にいた時に言ってきたことの要点がそれだ。「私は戦いが好きだ。自分が正しい側にいると知っているから。神は自分の側にいるから負けることはない! 自分が勝てるとわかっているから、戦うのが好きだ。」 私は敵を打ち負かすのが大好きなので、敵と戦うのが大好きだ。勝者の側にいて、勝利の喜びを味わうのが大好きだ。要するに、戦うのを愛するということは、勝つのを愛することに基づいている。征服し、勝利するのを愛するということだ。

  9.勝ちたい、成功したいという、もともとの人間の傾向は、おもに人間的プライドだ。ただそうなりたいがために攻撃的で競争的で強硬な時には、たいした霊的メリットはない。しかし、そんな人間的本能を利用して、主のためのファイターや征服者となり、主の戦いに勝ち、主の大義を広めるために活用して、それをすることを愛し、そこに楽しみを見出すなら、素晴らしいことだ!

  10.ある意味で、身体や性格が積極的な人々のほうが、これを学ぶのはより容易だ。しかし、より柔和で消極的だったり、内気で不安がある人でも、戦いを愛するようになることができる。戦いを愛するのは、実際、賜物なんだ。主は誰にでも与えて下さる。

  11.また、霊の助け手たちを通しても学ぶことができる。すでに学んでいる助け手たち、勝利の香りを味わい、とても好きなので、それを手にするために必要な激しい戦いをも味わい楽しむ助け手たちを通してだ。霊の助け手たちは、必要とあらば、人の性格やその見方に影響を与えたり、変えることさえできる。あなたたちが、その面で自分に影響を与えさせるのを許すほど、彼らに親しくさせるならね。

  12.あなたの性格は神からのものであり、神はそのすべての部分に目的があった。そして、場合によってはそれを克服するのが目的であることもある。あなたが内気でおどおどしていて、敵と戦うこともためらうほどなら、その内気さは、あなたが克服するのを神や霊の助け手たちが助けることができ、また助けたいと思っている性格の一部なのだ。

  13.戦いを愛することについて、一つのたとえを挙げよう。中には、これを身近に感じる人たちもいるだろう。たとえ激しくて疲れるほどであっても、運動をエンジョイする人たちもいる。身体を動かすことが好きだからという場合もあるだろうが、彼らがそれほども楽しむのは、一生懸命運動することで到達できるビジョンやゴールが大体の理由であることが多い。

  14.自分のボディー作りのために、ウエイトを使って運動する人は、ベンチプレスをして、やり慣れた重さにさらにウエイトを加えていく度に、大きな「喜び」は感じないかもしれない。だがそれでも、「快感」や「最高の気分」を味わうことがよくある。その結果が好きだからだ。結果を重んじているので、そこに到達するための努力や苦労は価値があると考える。目標に集中しているので、その苦労さえ喜びをもたらすことができる。

  15.マラソンをしたいと思っている人は、毎日毎日練習するかもしれない。肉体を動かし、鍛えるだろう。見ている人からすれば、肉体的拷問にさえ見えるかもしれない。しかし、ランナーたちは、たいてい、それを楽しんでいると言うだろう。と言っても、練習自体を楽しんでいるというよりも、ゴールに目をとめていて、目標達成のために自分たちが得られる大いなる喜びを頭に描いているのだ。最後までやり遂げ、これこれの時間内にこれこれの距離を走ることができれば、強い達成感と成功したという思いを抱いてわくわくする。そのためには、きつい練習もいとわない。それほどの思いがあるから、勝利につながるハードワークさえも楽しむのだ。

  16.肉の領域にいる人々が、何かの「勝利」を手にするためになら、大変な努力をし、「戦い」を経験するのもいとわず、ゴールに目をとめていることで戦いを楽しみさえするのなら、主の子供たちであるあなたたちは、なおさら霊的勝利というゴールに目をとめていることで霊的戦いを愛するようになれるのではないだろうか。自分たちは真理のため、また、目指すだけの価値があって、地上の短い人生を超える目標のために戦っているとわかっているのだから。ひとたび勝利を愛するようになったら、戦いを愛することもできる。すでに勝利を愛しているなら、それを利用して、激しい戦いの真っ最中に、勝利への愛着だけを考えなさい。それによって、戦いを愛することを学ぶだろう。

  17.しかし、今のあなたが、勝利を愛するところまで行っておらず、強い愛着もないなら、祈ってそれに集中し、そのような見方ができるよう、主に助けを求める必要がある。それがないなら、立派な兵士になれないからだ。それは、効果的かつ積極的にすぐれた戦い方を学んでいき、神のファミリーの軍隊が必要とするタイプの兵士となるために必須の、中心的で基本的な条件である。

  18.戦いが好きになることなど絶対にできないと思う人々がいるのは、彼らが、戦いとは何かを知らないからだ。彼らの考える「戦い」とは、敵に攻撃されている間、防御することでしかない。そんな戦いでは、大半の人はそれを楽しみ、好きになることは決してないだろう。敵が最初に攻撃してきたので、防御するということもあるが、それから、優勢になり、勝利する。それも素晴らしい快感であって、自分から攻撃した時よりも興奮することさえある。要点は、戦いを愛するようになるには、受け身的ではなく、積極的に戦わなくてはいけないということだ。勝利するために戦い続けていなくてはならない。

  19.戦いを楽しむ方法とは、勝つのを楽しむことだ。しかし、いつも守勢にまわり、ただ「持ちこたえ」たり、「維持して」いたり、かろうじて殺されないでいるだけで、自分が勝ち、征服し、敵をやっつけることがめったにないなら、もちろん、勝利や勝つことの喜びを理解することはない。どうやって戦いを愛することができるのか見当もつかないのは当然だ。

  20.いまだに守りの意識しかないなら、どうやって戦いを愛せるのか理解に苦しむことだろう。しかし、攻撃的思考に転じ、ひとたび、自分は勝てると自信を持ち、活発に勝利を収めていて、悪魔を負かせるという確信が理由で悪魔の領域に攻め入ることで、悪魔にさらに戦いを仕掛けさえするようになるなら、あなたはその時、戦いを愛するようになるだろう。(以上、メッセージ)

あがない主なるイエス・キリストのために、ラッパを長く高らかに響かせることもせずに、この世界をさっさと終えて、天に静かに入り込むようなことがあってはならない。我々が戦場を離れたというニュースを聞くと、悪魔は地獄で感謝の礼拝をするのだということを、しっかり認識していよう。-C.T.スタッド(1860-1931).

  21.(イエス:)真に戦いを愛するということは、実際に勝てると認識していることだ。戦争が起こっていること、リスクは大きいこと、だが克服し、勝利する能力が自分にあるとわかっている。

  22.だから、そうだ、あなたは心から戦いを愛するようになれる。しかし、それが何でも、相手が誰でも、たたきのめして場外に出す力と武器と能力が自分にはあると認識するまでは、心と思いの態度の切り替えは無理だろう。心の奥底でそれを認識してしまえば、攻撃に出たり、わたしから与えられている、楽しむだけの力も楽しみ始めるだけの備えができる。

  23.戦いを恐れたり、ためらってそれに入り込みたくないのは、わたしから与えられたパワーにまだ気づいていないことを表している。そのパワーの効果に対して信仰がない。自分が負けるものに関わっているのではないかとか、強敵に会うのではと恐れている。自分が戦うように召される戦場が何であれ、自分が勝てると心から信じていないのだ。しかし、自分が勝てる、わたしからそのパワーをもらっていると認識しているなら、突如として、戦いは喜びとなる。良いことを行い、自分の価値を証明する場となる。

  24.それは、知っていることから来る態度だ。わたしのパワーによって、克服できないものは何もないこと、わたしの意志なら、たとえそれが重い不治の病だとしても、これから、克服することはますますわたしの意志となるだろう。あなたは、状況がどうあろうと、あなたが霊の内でつかんで使うのをわたしが待っているパワーがあることを認識する。あなたは、わたしにはその病気を克服する力があること、自分はその力をつかみ取って、自分の感覚が何と告げようとそれを手放さないことを認識している。それは推測ではなく、知っていることだ。わたしがそこにいると知っていること、わたしのパワーが何かを知っていること、わたしの意志が何かを知っていること、あなたが戦っているものを克服するパワーに実際アクセスできると知っていることだ。

  25.自分にはそのパワーがあると気づきさえすれば、戦いは喜びに変わる。ただパワーを持っていると考えるのでも、パワーを持っているかもしれないと考えることでもなく、実際に持っていて、勝てる能力があると知っていると気づくことだ。戦うなら、自分が勝つことに疑いの余地はないと気づけば、戦うことは喜びになる。

  26.試合開始のブザーが鳴って、バスケットボールの試合が始まるのを待っている選手は、自分に技能があるのを知っているが、緊張している。あがっているのだ。試合がどう展開するかわからない。前に相手チームと戦ったことがないのかもしれない。自分がどれだけやれるかわからない。しかし、しっかり鍛錬し、訓練してきた。ボールの扱いも知っているし、シュートもドリブルもできる。その技術はある。スピードがあり、そう望むなら、チャンスが訪れた時に、ボールを奪うこともできる。スピードと能力があり、技能もあると知っているが、まだ試合が始まらず、どうなるかわからないのだ。不安な段階にある。

  27.しかし、ブザーが鳴って、コートに出る。すると、ボールがまわってきて、こっちに投げると見せかけて、あっちに回り、相手選手をうまくかわして、シュートの振りをして、土壇場で味方の選手にパスすると、その選手はシュートする。試合は始まっている! 緊張もなくなり、エネルギーがわいてくる。調子が出てきて、相手に勝っている。アドレナリンがどっと出て、もう試合が大好きだ。自分が勝てることを証明したい。自分の腕前を見せたい。能力を最大限に使いたい。

  28.絶対に望まないのは、試合から出されることだ! 試合が好きで、プレイが好きだから。そして、毎回、試合前に緊張するが、一度ブザーが鳴ってコートに走り出したら、もうアドレナリンとエネルギーと動きと技術とアクション、それだけと確信している。彼は試合が好きでたまらない。相手を負かすのが大好きだ。自分は勝てると示すのが大好きだ。

  29.愛する人たち、それはあなたがたにも言える。あなたがたも、戦いを愛するようになれる。勝つ能力はあるのだから。まだフルに使っていないから、どれだけの能力を備えているかに気づいていない。しかし、はっきり言って、それをすることを余儀なくされたら、あなたには何をすべきかわかっている。わたしから授けられたものを見て知るだろう。撃って攻撃を始めて、勝ち始める。力の限り戦うなら、勝てることに気がつくんだ!

  30.プロ選手がバスケットのコートに走り出る時には、コートの真ん中からボールをシュートし始めるようなことはしない! だらだらドリブルもしない。相手からボールを奪われないようにあらゆることをする。全力を尽くし、あらゆるテクニックと知恵を駆使して、相手よりも巧みに動く。

  31.それは、敵と戦うことと同じだ。全力を捧げるなら敵に勝てるのだとわかる段階まで到達しなくてはいけない。だから、全力を尽くしなさい! そうすれば、あなたはそれが好きになる。それは効果があるからだ。自分のほうがまさっていることを証明したのだ!

  32.しかし、あなたがたの多くは未だに不安な状態にいて、自分が全力を尽くして敵とまともにぶつかるなら勝てるということがわかっていない! どうやって本当に勝てるかがわからないのだ。中には、真剣な本物の戦闘をしばらく経験したことのない人もいる。または、今まで本気で反撃していなかったので、まだ試されたことがないという気持ちが少しあるのかもしれない。あるいは、自分が持つ力を試したことが全くないし、それがどのようなものか、確信がないのかもしれない。しかし、要点は、一度ゲーム開始のブザーが鳴って戦闘が始まり、そこに放り出されたなら、武器を取り、力と技能を尽くしてできるだけ次々に使い始めるなら、敵が倒れるのを見始め、勝ち始めるということだ! 愛する人たち、あなたがたが完全なパワーを持っていることに気づくなら、戦闘は喜びとなるだろう。

  33.だから、そうだ、あなたは戦闘を愛するようになれるし、そうなる。わたしのために戦っているのだから。そして、終わりに近づくにつれ、それこそ選択の理由、それも世界最良の理由であることを知るだろう。特に、失われているわたしの子供たちを救う時に生まれる結果を見る時には。あなたが失われた者たちの苦難を見て、彼らを助けるために何ができるかや、敵に勝てるだけの本当のパワーが自分にはあると気づくなら、チャンスがあるたびに思いっきり敵の心臓を貫くだけの大胆さとエネルギーにあふれるだろう。

  34.勝つためにそれらの武器を取らなくてはならない時、また、実際にそれを手に取って、両手で振り回し始める時、あなたはその行動によって、それまでのびくびくした態度ではなく、積極的な態度で霊の世界へと踏み込んだことになる。きっとそれが大好きになるよ! エネルギーがわいてくるだろう! そして、もちろん、ただの態度や思考の状態ではなく、気持ちも伴ってくる。一石三鳥だ。きっと好きになる。

  35.それこそファイターというものだ。武器を取り、緊張や不安を振り落として、戦闘によって、戦いを愛する者へと変化を遂げる者だ。愛する人たち、あなたはそうなる。斧を取って戦場に駆けつけ、両手で振り回し、敵を滅ぼし、それを愛し、その結果、戦闘ごとにますますエネルギーとアドレナリンでみなぎること、それはあなたがたの召しであり、宿命だ!

  36.それは可能なだけでなく、きっとできる! やるべきことを成し遂げる者たち、武器を取り、戦闘へと進軍し、武器を振るう者たちはそうなる。どうしてそうなるのか? それは敵が倒れ始めるのを見て、わたしの霊に満ちあふれ、自分の持つパワーに気づくからだ。わたしの霊に満たされ、わがエネルギーによって快感さえ覚える。次々に勝利する! そうだ、あなただよ! あなたは勝利者だ。愛する人よ、わたしに従って戦いに入るあなたにとって、そうなるようにわたしがしてあげるからだ。

あなたがたは敵よりも優れた兵士たちだ。より訓練され、より武装していて、超自然的な助言者や協働者たちが、すぐあなたのそばにいる。ただそれを信じなくてはならない。ウィンストン・チャーチル(霊界から語る)

戦うことを愛するようになるためのもう一つの鍵:罪悪感を取り除くこと!

  37.(イエスが続ける:)戦いを愛することのもう一つの面とは、個人的な戦いの中にあっても、罪悪感に陥らないことだ。罪悪感を抱かせることは、個人的戦いにあなたが襲われた時に、敵が最も気に入っていて最もよく使う戦闘プランだ。それには、明確な目的がある。それは、あなたのハロウィーンの輪を下ろさせること、つまり武器を落とさせ、反撃しないようにさせることだ。

  38.悪魔は、あなたが悪魔を征服し、敗北させるだけのパワーを持っていることを知っている。だから、もともとルシファーとして賢く創られたのに、今は、ペテン師となってしまった悪魔は、その狡猾さをもってあなたがたに武器を放棄させることで、あなたが彼を打ち負かそうと試みさえしないようにする過程を編み出した。その過程が、罪の意識と呼ばれている。

  39.悪魔はあなたがたに罪への誘惑をきたらせ、あなたがそれに陥ると、今度はそのことで責め立てる。罪悪感というのは、しばしばその人の独善とつながっている。敵は、人間の性質は独善的になりやすいことを知っているので、それを利用する。人に罪を犯させ、それから、その人の独善をつついて、自責の念を起こさせる。それをするのがどれだけ誤っているかを指摘する。それに降伏してしまうと、自分の生まれつきの独善性によって徹底的に罪の意識にさいなまれるだろう。とにかく罪の意識があると、あなたが完全なる喜び、信仰、決意をもって反撃するのを巧みに阻止できると知っている。

  40.要するに、罪悪感はわたしからではないということだ。そのことは、わたしの新しい言葉と古い言葉、つまり聖書とレター両方に明確にされている。花嫁たち、要は、あなたがたが事実を真剣に受け入れ、その真実性を認識し、罪の意識にさいなまれる時でさえも攻撃に出るかどうかだ。それについての鍵のクオートを暗記し、敵が責め立てる時には反撃してやりなさい。敵のしていることを悟りなさい。激しい非難は絶対にわたしの声でないことを悟りなさい。敵に反撃し、追い出し、非難の声を打ち負かしなさい! そして、勝ち始めたら、敵があなたに戦わせたがらないどんな戦闘をも戦い続けなさい。

どれだけ高く登ったかで人の成功を判断してはいけない。どん底に行った時にどれだけ跳ね返ったかで判断しなさい。—ジョージ・パットン将軍(1885-1945)

  41.ひとたび非難の攻撃に勝ったら、敵をかなり退却させたことになり、守勢ではなく、攻勢に回れるようになる。自分から積極的に攻撃するようになれば、戦闘を戦い始めるのは時間の問題だ。

  42.罪の意識の戦場こそ、あなたがたの多くが戦いを楽しむのを妨げてきた。罪の意識と戦い、自分の罪を直視するのは、楽しくなく、喜びもなく、「戦いを愛する」にはほど遠い。それどころか、逆だ。それは戦闘を嫌がっているということだ。悪魔自身があなたがたに戦闘を恐れさせ、罪の意識と戦うことを毛嫌いさせることで、戦闘も毛嫌いするようにさせている。

  43.しかし、罪の意識の特効薬は、それが絶対にわたしの声ではなく、常に自分または悪魔の声であると気づくことだ。だから、その時点で、聖書でもモーレターでも鍵の約束でも何でもいいから、わたしの言葉の斧を取り、その罪の意識をめった切りにしてしまいなさい。

  44.罪の意識にさいなまれてはいけない。拒絶し、頭の中から追い出し、その真の姿が見えるように目の前において粉々にしなさい! 一度それをするなら、そして、自分には罪の意識にまさる力があり、それを破壊する道具も持っていると気づくなら、愛する人たち、あなたがたはいずれ、戦いを楽しみ、戦いを愛するようになる。自分には敵にまさる霊的な力があると気づいたことになるからだ。

  45.あなたがたの多くにとって、これは、勝利しなくてはならない最初の戦闘になるだろう。後回しにせず、棚の上にしまったりもせず、それを破壊するのだ。とにかく罪の意識をこっぱみじんにして、自分の中から取り除くと、戦いが大好きで、自分の人生や他の人々の人生において敵の要塞を破壊することが大好きな、終わりの時の勝利者の一人となるのは間違いない!

  46.愛する人たち、あなたがたは征服者以上の存在だ! 自分の人生の要塞を征服するだけでなく、立ち上がって、敵の陣地に押しかけ、それも征服するのだから。あなたがたは勝利者だ!

  47.あなたは自分が本当は何者で、どんな武器をわたしから授かり、どんな力をその手に有しているかを悟って、それを使わなくてはならない! 敵はもはや生半可ではなく、あなたがたもそうあってはならない。敵をたたきのめしなさい! もと来た所に、地獄に送り返しなさい! 自分のまわりに霊的な陣地をこれっぽっちも作らせるな。わたしのために、全部自分の領土としなさい! 出て行って、自分ものだと宣言しなさい。わたしがあなたに与えたのだから。(以上、メッセージ)

 

勝利こそあなたを強くする[ボックス] 

  48.(イエス:)わたしのやり方では、あなたを強くするのは戦闘ではなく、勝利だ。勝利なしに長期の戦いをするのは疲れるし、強められない。勝利は、あなたが早く望めば望むほど早くやって来る。わたしの考えるところでは、早ければ早いほうがいい! 鍵をつかみ、勝利して、前進しなさい。

  49.どうしてぐずぐず戦い、分析するのか。どうして、面倒な剣での戦いを始めて、剣で突いたり、斬りつけたり、かわしたり、斬り込んだりするのか。ただ銃を出して来て、悪魔を撃ち、すぐそこにある他の事をやり始めなさい。どうしてぐずぐずやるのか。

  50.戦いに勝つのは、派手なことでも、手の込んだことでもない。たいして能力も調整も立派な外見もいらない。だが、勝つことは素早くて効果的だ。本当にうまくいく。洗練された武器だ。より大きな銃を使って、仕事をすませ、次のことに移りなさい。霊的な不屈の精神と勇気の鍵を呼び求めなさい。

  51.敵は、あなたが招き入れない限り、足場を作ることはできない。他の入り口は全くないのだから。だから、そのいまいましい面前でドアをばたんと締めて、仕事に戻りなさい。それをするのに、驚異の戦士か何かになる必要もない。(以上、抜粋)

  52.(質問:)これは、堪え忍ぶことや、戦闘が長引くこともあること、また、主が、それらの状況を通して私たちの忍耐や信仰や霊を強めると言われたことに、どう当てはまりますか?

  53.(イエス:)ここでわたしが語っていた勝利とは、あなたの思いの状態のことだ。状況は変わらず、目に見える形での戦いはなくならず、戦い続ける必要があるかもしれないが、霊の内では勝利がある。ポジティブでたっぷり賛美し、信頼し、攻撃に出ている。霊の内で守勢から攻勢にまわるという勝利は、即座に訪れることもできる。それこそ、わたしが今話している勝利だ。

  54.目に見える結果、つまりいやしや供給、環境の変化は、訪れるのに時間がかかるかもしれない。しかし、心と思いの勝利はあなたの選択だ。それは、武器を使って、悪魔の侵入を阻止すると決めることであり、いつでもそう決めればできる。即座に戦うわが戦士たち、それをわたしは期待し、待っている。(以上、メッセージ)

焦点を当てている武器:愛の律法

  55.(ママ:)この戦術のGNで焦点を当てている武器は、愛の律法です。愛の律法は強力で美しい武器であって、それを使うことについて強められるなら、ファミリーとして多くの面で強められることでしょう。

  56.(イエス:)あなたがた、わたしの花嫁たちは、世界中のクリスチャンの大半よりも愛の律法の実践にたけている。何年もの練習と経験を重ねてきたので、大体において成長し、進歩を遂げている、自分だけでやっている人々や、この世で自分のために生きている人々よりも、はるかに先を行っている。

  57.しかし、そのようにうまくやっていない人たちの先を行っているだけでは、あなたがたが満足しないのは知っている。徹底的にやりたいのだ。この武器を恵みと巧みなわざと正確さと確信を持って使えるようになって、いつでもすぐ使えて、まさに自分の一部になっていて、必要があればただちに発射できるようにしたいのだ。わたしは、これから与える実際的なカウンセルを通して、あなたがそれを達成するのを助けたい。

  58.あなたがたの霊の武器はすべて、様々な用途と目的と強みがある。愛の律法は個人的な防御や敵に対する攻撃に非常に効果的な武器だが、他の人を防御したり、守ったり、彼らのために敵をやっつけるためにも、桁はずれに強い。あなた自身が勝つために使う特定の戦いにおいて助けとなるだけでなく、そのパワーは、あなたのホームや愛する人たちを取り巻く力の場にも入っていく。そして、あなたがたを守り、さらなる攻撃に対してチームとしてあなたがたを強める。

  59.その他に、愛の律法の武器の飛び抜けた強みとは、攻撃的に使うことで、失われた魂をわたしの胸に引き寄せ、彼らがわたしとつながるのも助けることだ。ちょうど、彼らがわたしの腕に駆け込む時に、彼らを敵の攻撃から守るためにこちらから援護射撃するようなもので、彼らがわたしのものになると決意しようとしているか、わたしに引き寄せられる時に、敵が近付かないようにするのだ。

  60.ますます暗くなる日々に、愛の律法の実はあなたがたの最大のテスティモニーの一つとなるだろう。もともと意図された通りの方法で使えるようになるなら、あなたがたの絆と団結は超自然的に強まり、あなたがたを見ている人たちの目にも見えるようになる。あなたがたはすでに輝きとオーラを放って、そこにいるだけで愛があふれてくるので、失われた魂やさまよえる魂もそれに必ず気づく。しかし、来たるべき日々には、あなたがたがその武器の使い方をよく学び、勉強するなら、オーラは増して、闇を焼き焦がす光のようになるだろう。否定できないほどで、特に霊的に敏感でない人もそれに気づく。それは大勢の人々をわたしに引き寄せ、あなたがたに超自然的なパワーと保護を与えるだろう。

  61.愛する人たち、この世の他の人々に比べれば、すでに愛の律法の使用において強い人たちよ、それはすでにあなたがたの賜物の一つとなっている。しかし、わたしからたっぷりと真理を与えられていることで本来できているはずのことと比べると、もっと入念にそれを実践し、従うための努力をするなら、はるかに進歩を遂げられるだろう。わたしがあなたがたに与えたいと願い、また互いに対して持ってほしい愛の深さを理解できるようになる。それを実践し、弱みを強みに変えることができる。最初の反応を愛の反応とすることができる。しかし、一夜にしては起こらない。それらの結果に到達するには、熱心な訓練をしなくてはならない。

  62.あなたがたは必要なものすべてがいつでも自由に使える。わたしのアドバイスと指示もある。共同生活や、わが大使たちとして召されている状況にいることで、強められるための機会がどっさりある。すでにわたしのために生きていて、非利己的な生活をして、わたしの愛を他の人たちに与えるためにできることをしているから、その心にはすでに土台が作られている。だから、この冠、つまり、この愛の律法の面において鍛えられ、真価を証明していることから来る栄光、名誉、非の打ち所のない輝きの冠がほしいなら、それはあなたのものだ。手に取りなさい!(以上、メッセージ)

愛の律法とは何か?

  63.(ママ:)私たちがこの霊的な武器をフルに使っていない一つの理由は、一つの面が、つまり性的な面が幾らか微妙で繊細であり、人生の他のすべての面で愛の律法の実践において練習を積んでいないなら、正しい実践はとても難しいからです。ですから、もっと愛の律法を実践すると考えるだけで怖くなる人も、幾らかまたは沢山いることでしょう。この武器について掘り下げて学び、使うことをためらっているのです。

  64.ですから、どうやったらこの武器をもっと良く使えるかについての主の指導に入る前に、このGNで焦点を当てている武器は、愛の律法全体のことであって、ただ性的な側面だけではないということを明確にしたいと思います。「愛の律法」と聞くと、大半の人はその面を考えるかもしれませんが、それは小さな部分でしかありません。

  65.愛の律法はそれよりもはるかに大きく広く、イエスのための人生、共同生活、弟子としてのテスティモニー、さらには救いの土台でもあります。イエスは、地上に来た時に愛の律法を教えました。イエスは、私たちが古い律法、つまりモーセの律法から解放されるように苦難を受け、十字架で死んだのでした。私たちがゆるしを求める一切のことをゆるす力が持てるようにです。主は、古い律法の代わりに愛の律法を教えられました。ですから、そのように考えると、愛の律法は救いと結びついています。十字架でのイエスの死によって、主は私たちの罰を代わりに受け、それによって古い律法を廃止する自由を持ち、代わりに愛の律法を置かれたのです。それほど大きくて素晴らしいことなのです。

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ22:37-40)

あなたの見方は健全な2%だろうか?

  66.というわけで、このGNでは愛の律法を全体的概念、つまり私たちの生活を導く方針として語っていきます。将来、皆が他の面に焦点を当て、強める時間を取った後で、もっと性的側面について取り上げていくかもしれません。しかし、その98%こそ土台であり、最も大切な部分なのです。

  67.けれども、敵との戦いやイエスのために世界を勝ち取るために、どのようにすればもっと有効に愛の律法を使えるかに入る前に、性的側面での複雑な点について幾つか説明したいと思います。愛の律法を武器として使うことにおいて強くなりたいなら、それを正しい見方で見られることは大切だからです。完全な信仰を持つ必要があります。自分が傷ついたことがあったり、誰か傷ついた人のことを聞いていて、傷の原因が愛の律法であると考えるなら、必要な信仰は持てないからです。

  68.主が私たちに与えられた性的自由は、微積分にたとえることができるでしょう。九九で苦労したり、桁数の多い割り算、代数などに苦労しているなら、微積分の複雑な数式にいきなり飛び込むことはしないでしょう。だからこそ、性的な側面も正しく理解することを望むなら、すべての面で愛の律法を実践して、強くなり、練習を積むのは大切なのです。

  69.(イエス:)愛の律法の性的側面を誤って適用する主な理由は、人々が愛の律法全体を見るのを忘れているからだ。愛の律法全体とはセックスではなく、自分の必要を満たすことでもない。他の人の必要を満たすことである。

  70.愛の律法の性的側面は確かに存在はするし、重要な部分ではあるものの、人生全体の中では、本当に小さな部分でしかない。健全な生活のわずか2%と言う人たちもいる。セックスがわずか2%であれば、愛の律法の中での性的側面は、愛の律法全体の2%にすぎない。わたしの花嫁一人一人がその人生の他のすべての面で愛の律法を実践しているなら、愛の律法は性的側面でもうまくいくだろう。だが、実践していないなら、うまくいかない。

  71.愛の律法は他のすべての行動を導いているだろうか。そうしているなら、それに沿って生きていると言えるし、性的側面も問題にならない。時々、不安や質問もあるかもしれない。そうだ、幾らか傷つくこともあるだろう。しかしそれは良いほうの傷だ。犠牲を払うのは、常に気持ちが「良い」ものとは限らないから。そして、誰も完璧な人などいないから、悪い傷も起こる。しかし、傷つくことははるかに少なく、祝福ははるかに多くなるだろう。(以上、メッセージ)

  72.(ママ:)性的な相互関係はありとあらゆる複雑な状況や問題をもたらします。それは愛の律法のせいではありません。そういった問題は、ただ、セックス、感情、信頼、メイトとの間での取り決めに忠実かどうか、愛と犠牲、利己心とプライドに関係しているのです。これらは大きくて複雑な要素で、ファミリー内外に関わらず、人々はこれらの事柄に葛藤し、幸せや心痛、希望、落胆、浮き沈みを経験しています。

  73.性的な相互関係において愛の律法の霊で行動しているなら、セーフガードも保護もあるでしょうし、主の祝福もあります。実生活において愛の律法の真の霊に生きようとベストを尽くしているなら、主は必ずあなたを祝福し、世話し、たとえ困難や複雑な状況を経てでも、最後には物事をうまく行かせて下さいます。それが主の約束です。でも、セックスや感情的な事柄に関係する時はいつでも複雑な状況が持ち上がることや、時には非現実的な期待や落胆が生じること、また、幸せや愛や団結の絆、そして時には傷や涙も生じ、ゆるしたり理解したりすることが必要になるのも知っておきましょう。

  74.別の面もあります。誰かが愛の律法を誤用していて、フリーセックスの言い訳として利用していながら、実生活の他の面では愛の律法に生きていない場合がそうです。愛の律法のどの面を評価するかについて「えり好み」をしているなら、そういう人は全く愛の律法に生きていることにはならず、性的自由を実践するための「言い訳」として愛の律法を利用するべきではありません。

  75.違いがわかりますか? その気分の時も、そんな気分でない時も、能力の限りを尽くし、人生のすべての面で全面的に愛の律法に生きなければならないのです。そして、物事がうまく行くことを望み、主の祝福と保護がほしいなら、性的生活の面で愛の律法を貫きなさい(つまり、メイトとの同意に反した行動をしない、祈り深くない性的接触に一切関わらない、憲章のいかなるルールにも違反しない、誰かからされたくないことは一切しない、自分が他の人からしてほしいと期待するのと同じだけ喜んで与えるなどという面で)。愛の律法を全面的に生きるために自分の分を果たすことをしていないのに、性的自由が許されるという部分だけを要求しているなら、あなたは実際、愛の律法に全く生きていないことになります。

  76.愛の律法には性的な自由が含まれますが、性的自由は愛の律法の他の部分から切り離されているわけではありません。そのすべてをひっくるめて、喜んで受け入れなければなりません。それには、犠牲、与えること、生活のすべての面において能力の限りを尽くしてできる限り愛情深く生きるなどが含まれます。そうしていないなら、性的側面をうまく行かせようとしてはいけません。うまく行くはずがないからです。一部分だけ、あるいは選んだ部分だけうまく行くことはありません。すべての面で愛の律法に生きることなしに、性的自由を要求することはできません。そんなのはうまく行きません。あなたが愛の律法に生きていないなら、愛の律法に付随している約束と祝福はあなたに当てはまりません。結局は他の人や自分を傷つける結果になるでしょう。

  77.このGNでは愛の律法の性的側面や性的自由について詳しいことを述べるつもりはありませんが、その概念を思い出してほしいと思いました。性的な面で愛の律法を誤用しており、ファミリーの人たちが、愛の律法に含まれず、したがって正しくない性的自由の言い訳として愛の律法を利用するという罪を犯している時、自動的に愛の律法が非難されます。これは人々の御言葉に対する信仰に害を及ぼし、その結果、あなたたちの多くは愛の律法に関する信仰が弱くなっています。それがうまく行くのかどうかよくわからない人たちさえ大勢います。

  78.愛の律法、イコール、性的自由ではないことを、皆さんにはっきりと理解してほしいです。性的自由が愛の律法に該当するのは、本人たちが愛の律法の範囲内でその性的自由を楽しんでいる時だけです。そうでない時、つまり、その人たちが同意に反して行動したり、超えるべきでない境界線を越えたりしている時、愛情深くない時や利己的な時、彼らは神の律法からすれば罪を犯しています。

  79.あなたの思いの中で、実際に愛の律法を完全にあますところなく生きることと、ただ「性的自由を要求すること」の違いがはっきりするまでは、実生活のこの面を強めることにすっかり飛び込む信仰は持てないでしょう。きっと心配になり、自分を抑えるでしょう。ですから、愛の律法に対して正しい態度と考え方を持っていることを確かめて、実生活においてこの武器を効果的に使えるよう、主に対して真剣になる必要があります。

  80.愛の律法は私たちの兵器庫にある霊的武器の一つです。そればかりか、これはこの世に対するテスティモニーの土台であり、「多くの人の愛が冷える」につれ、さらにその意味を増すでしょう(マタイ24:12)。そして、主は、羊や弟子を引き入れるために、私たちの愛の手本をもっともっと使いたいのです。

大きな犠牲なしに戦われた大戦争というものはない。大きな戦闘では、戦士には犠牲が必要だ。だから、すべての戦争の中でも最も大きなこの戦争に勝つために犠牲が要求されても、驚いてはいけない。--アーウェン・ロンメル陸軍元帥(霊界から語る)

現代版第1コリント13章

  81.愛の律法はとても大きな概念で、時として現実的な意味を明確にするのが難しいので、私は主に、このGNのために実際的なカウンセルや実例をたくさん与えて下さるようお願いしました。これですべてというのでは決してありませんが、実例が皆さんにとって助けになるよう、また、少なくともこの素晴らしい賜物と武器を実生活にもっと活用することに働きかけるための第一歩となるよう祈ります。

  82.愛の律法に生きることは、突き詰めると、愛、つまり、非利己的で、犠牲的で、偏り見ない愛によって行動し、決断し、それを動機とすることです。聖書で愛の大切さやその適用法、愛がなければいかにむなしいかを説明している最も良い章の一つは、第1コリント13章です。私は主に、現代版の第1コリント13章を与えて下さるようお願いしました。

  1.たとい私が宣教のフィールドにいた頃学んだ言語を5カ国語話せたとしても、また、長年の間異言の賜物を持っていても、ゴシップをしたり他の人をけなしたりする舌を抑えるだけの愛がないなら、私は無益な騒音になっているばかりか、周りの人たちにとって有害な影響を与えている。

  2.たといまた、私がいつも忠実に、さらに余分にワードタイムを取り、公の場でも一人の時でも長く詳細に渡る預言を受け取ることができ、すべてのヘルパーたちや妨害者たちとその力を暗記し、また、霊的信仰もたくさんあり、さらにはいやしの賜物さえあったとしても、時折自分の「完璧な」御言葉やデボーションの時間を犠牲にして、親たちがワードタイムを取れるよう子供を見てあげるだけの愛がないなら、他の一切のことは主にとってたいして意味がない。

  3.また、一日中前線で忠実に富者に手を差し伸べ、貧しい人たちを犠牲的に顧み、機会あるごとにアクティベーテッドをプッシュしたとしても、家に戻って仲間のホーム・メンバーたちに主の愛を示せないなら、私の一日とすべての「良きわざ」は無益である。

  4.真の愛は、何もうまく行かないように思える、長くつらく、挫折しそうになる一日でも、他の人たちに対してぶっきらぼうになったり、短気になったりしない。真の愛は、何があっても、それが愛情深い行いだからという理由だけで、他の人たちのためにスイートであり続ける。他の人がもっと良い部屋をもらったり、自分が行けないパーティーやフェローシップやミーティングに行っても、真の愛はただ他の人の幸せを喜ぶという理由で、それを気にしない。真の愛はプライドと積極的に戦い、謙遜なことをする機会を積極的に捕らえる。

  5.真の愛は、仲間のホーム・メンバーや弟子に対してさえも、良いクリスチャンの見本になることを気にかける。真の愛はわたしの反映だから。真の愛は不平や不満、愚痴を言わず、罪の意識を与えず、自分の望みを通そうとして他の人たちにプレッシャーをかけたりしない。なぜなら、真の愛は他の人の必要を気にかけるのに忙しくて、自分の必要を気にしている時間などないからだ。真の愛は短気ではなく、他の人に向かって声を荒立てたりしない。真の愛は徳を高めない体制のインプットに関わらない。わたしの愛の純粋で清い器でいるには、良いことを考え、経路を清く保つ必要があると知っているからだ。

  6.真の愛は他の人についてのゴシップを聞くのが大嫌いであり、代わりに他の人がした良いことや、彼らが真にどのように大きな祝福になっているか、また、一緒に住めてどれだけ素晴らしいかだけを話したがる。

  7.真の愛は融通が利き、毎日毎日を冷静に乗り越え、身に降りかかるどんなことをもうまく扱う超越の力を持っている。真の愛はいつでも相手にとって有利に考えようとし、人の動機が良く、清く、誠実であると信じる。真の愛は、他の人たちが可能性を最大限に発揮するよう望み、彼らへの信仰を決して失わないことで、そのための機会を与える。真の愛は信仰と忍耐を絶やさない。

  8.真の愛は、現世の心に蓄えられている愛だけに頼ることで誰かを失望させることが決してない。真の愛は、他の人を愛するためのわたしの完全な愛を受け取るために、わたしに頼る。それによって、その愛が決して尽きないようにである。世界中の他の事柄は絶えうるが、わたしから来たものは絶えない。あなたは失敗し、不完全な預言や混乱した異言や無益な異言を受け取るかもしれず、あなた自身の知識によって完全に誤り導かれるかもしれない。

  9.なぜならあなたは誤りを免れないただの人間であり、天国の物事を、一番良くとも部分的にしか把握できていないからである。

  10.だが、わたしの霊があなたの内に生きているなら、すべての間違いや誤りを免れない性質をも覆すことができ、霊のより深い物事を理解し、それに生きる助けになる。

  11.あなたがたは皆、わが愛の律法においてとても未熟な子供のようだ。あなたが愛の律法に語る語り方は子供っぽく、それについての考え方も子供っぽく、行動も子供っぽい。だが、わたしはあなたに、霊的な大人になり、成熟した適用法を用い、子供っぽい方法から抜け出るようチャレンジしている。

  12.たった今、あなたは不完全な世の中で完全な愛の律法に生きている。だから、間違いや問題、理解できないことはいつだってあるだろう。だが、わが完璧な王国で完璧に愛の律法に生きる日がすぐに来る。その時、あなたはそれをわたしのように理解し、それが正しかったことを知るだろう。

  13.人生には良いことがたくさんあり、わたしのためにするよう求められることも多いが、愛ほど大切なものは何もない! 

  (ママ:)皆さんも私のように、愛、団結、信頼、無私無欲さからなる兄弟愛の武器と、愛の律法の武器の違いは何だろうと思っているかもしれません。その二つは深く関係しているように思えます。そして、実際そうなのです! それについて主に尋ねると、主は、この二つは基本的に言って、宇宙最大の力である愛を動力化するための二つの方法だと説明されました。この二つは深く関連し合い、時には重なることもあるので、主は、頭の中でこの二つを完全に切り離す必要はないと説明されました。

  (イエス:)わたしがこれらの賜物を言い表すために「武器」という言葉を使ったのは、これらは悪魔と悪魔の侵入、攻撃に対して強力だからだ。これらは悪魔の毒からあなたを守り、心をいやし、変え、新しい人生を創り出し、あなたや他の人たちを強め、大いなるわざをする力を与える役割を果たすので、「道具」と呼ぶこともできる。

  だから、これらは悪魔にとっては非常に破壊的だが、あなたが使う時には、非常にポジティブで、あなたやあなたの霊を強め、再生する力がある。「武器」という言葉は時として、痛みや苦しみという否定的な意味合いを連想させることがある。敵にとっては、あなたがこの霊の兵器を使う時はいつでも、そのような意味になるが、同時に、あなたや、この武器に触れられる周囲の人たちにとっては、この武器は人々を変える大いにポジティブな力を持つ。

  霊の武器は、それを自分の一部とした時にのみ、巧みに使うことができる。あなた自身に完全に溶け込ませずにこれを使おうとしても、決して真に役立つ効果的な道具にはならない。だが、多くの人がそのようにしている。愛、団結、信頼、無私無欲さを、剣や銃のように、自分の目的や、自分の望み、必要に合う時にだけ使おうとする。

  あなたは、わたしがはるかに大いなることにあなたを呼んでいることを理解すべきだ。そしてそれには、これらの武器をまさにあなたの一部として、あなたのすべての思い、すべての感情、あなたのすみずみにまで溶け込ませるために、あなた自身の利己的な方法や願いを犠牲にすることを要する。

  それがあなたの動機や願いになるぐらいしっかりとあなたの一部になり、それによって全ての行動がこの道具を通してわが霊によって動機づけられるようになるべきだ。愛の律法の武器と兄弟愛の武器はそれぞれ独特だが、この二つは一つだ。それらをあなたの一部とする時、二つは溶け合って、限りない力を持つ一つの武器になる。

  悪魔の安っぽい、まがい物の人造人間のイメージは、強力なあなたがたが霊の内でどのようになるかの歪曲されたバージョンだ。あなたの力は良いもののためだが、すべての面でこの武器があなたの一部になるよう、あなたもこれらの武器に深く溶け込まなければならない。

  この意味で、これらの武器はあなたの中で二つ合わさって、何ものにも止めたり抵抗したりできない力と威力を作り出す。愛の律法の武器と兄弟愛の武器を使うには、利己的さ、プライド、自分自身の人間性の怠慢さを捨てなければならない。そうすれば、これらの武器が作動し、あなたはわが栄光のためにその力をフルに発揮できるようになる。

  あなたは人がかつて為し得た何ものよりも勝ることができるようになる。これらの武器を通して悪を滅ぼし、サタンを打ち負かし、光と命、愛、力を互いに、そしてあなたが触れるすべての人たちにもたらすのは、人の性質ではなく、あなたの内にいるわたしの性質だからだ。(以上、メッセージ)(ML #3532:171,173-180, GN 1123)

愛の律法という貴い賜物は、強力な武器でもある!

  83.(ママ:)以下は、イエスとダッドから、愛の律法の武器と、それをもっと攻撃的に使う方法についての、励ましに満ちた宝です。ここにある宝は、特にダッドと書かれていない限り、すべてイエスからのメッセージの抜粋です。

  84.(ダッド:)どうすればこの愛の律法の武器を攻撃用武器として使えるのか? 敵が一番憎んでいるのは何か? 犠牲的な愛、誰か他の人のために良いことをさせるたぐいの愛だ。利己的で、自分を満足させるための愛は、敵にとって脅威ではない。それによって人は、自分自身と自分の望み、願いを心に留めるようになるからだ。だが、犠牲的な愛、自分の必要より他の人の必要を優先させる愛、外に出て主のために失われた魂を勝ち取るように強いる愛こそ、敵にとって非常に大きな脅威だ! 敵はすべて正反対のものの縮図だ。敵は、自己愛、自分優先、自分のために益になることをすることを促す。この世が宣伝しているすべてのものを。

  85.(ダッド:)愛の律法は、アガペーの愛、無私無欲の愛、手を差し伸べ、良きことをし、兄弟を愛し、自分の必要より他の人の必要を優先させるたぐいの愛だ。兄弟たちと団結と調和の内に生き、全体像において自分を最後に置くのを助けるたぐいの愛だ。

*

  86.(ダッド:)清く、犠牲的な愛は、霊の世界における白熱した光のようだ。闇を飲み込み、闇はそれに耐えられない。それゆえ、必要を抱えた人にあなたの豊かさを分け合ったり、失われた魂を勝ち取るために外に出るといった、いかなる愛情深い行い、愛ゆえのいかなる犠牲、いかなる非利己的な行為も、霊の世界では、悪魔とその子鬼たちを追い払う白熱した光に変わる。そして、わかるだろうか、その他にも、愛の行いや親切な行為はすべて、永遠に、無限に続く強力な白い光線となる。

*

  87.現世の言い方で説明するのは難しいが、あなたも知っているように、愛は永遠だ。そして、地上において愛によって、愛のために、愛の内に為されたことはすべて、霊の内で愛の明るい光線に変えられている。決してかすまず、古くならず、死ぬことのない光に。それらは永遠に存在し、永遠に存続する。それらは天の光の一部であり、それが天国を光り輝かせる!

  88.だから、愛の律法がどうして霊の武器なのか、どのようにすればそれを攻撃的に使えるかがつかめてきたかね? 人間の性質と、悪魔がこの世を支配したことのゆえに、愛の行為や非利己的な行いは、ある意味で奇跡のように見られている。人の肉的な性質は、愛情深さと犠牲と、自分より他の人を優先することとは全く正反対だからだ。それが理由で、愛の律法は非常にパワフルな霊の武器なのであり、悪魔とその子鬼たちの闇にとって大きな脅威なのだ。

  89.愛とは実際の霊的エネルギーであり、さらに言えば、宇宙一強力な力だ。愛の律法の武器を振るうことは、軽いことではない。それを振るう時、あなたの手には実際の力がある。愛は地上最大の力だからだ。そして、私が言ったように、愛は永遠だ。だから、親切さのちょっとした行いのすべては永遠に続き、非利己的さは霊の内で永遠に生き続ける。

*

  90.愛の律法はわたしがダビデの子供であるあなたにあげた美しい賜物だが、同時に、敵に対して使える非常にパワフルな武器でもある。正確に振るうのを学ぶなら、あなたは敵を敗走させるようになる。敵は、あなたが彼に対して振るうこの恐るべき武器に恐れおののくだろう。

*

  91.愛の律法の武器を攻撃的に使うための、一つ、大切な鍵とは、あなたが必要とする兄弟姉妹への愛、非利己的な愛、願い、手を差し伸べ、自分よりの他の人の必要を優先し、兄弟姉妹の荷を軽くするためにできる限りをするための動機を与える、駆り立てるような情熱で心を満たして下さいとわたしに祈ることだ。

*

  92.わたしの子供であるあなたがたが愛の律法の武器を手に取り、わたしが与えた任務を実行するステップを踏む時、つまり、まず心を尽くしてわたしを愛し、次に自分を愛するように隣人を愛する時、あなたはファミリーに大きな変化が起こるのを見るだろう。あなたがたは真に、わたしの願う、そして失われ孤独で暗い世の中にいるすべての人たちへの見本であるべき、愛のファミリーとなるだろう。

  93.ファミリーの初期の頃である過去の日々を思い出すなら、多くの人たちはあなたがたの戸をくぐった時に感じる愛に圧倒された。ハグやアフェクション、励ましや慰めの言葉が惜しみなく流れていた。それらはすべての人の唇から出ていた。すべての人の目に光があった。彼らのラブ・カップが満たされていたからだ。

*

  94.(ダッド:)あなたたちの中には、ファミリー内のファミリー・メンバー間に起こっている、愛に欠け、意地悪で、利己的な事柄に落胆している人たちがいるね。天国にいる私たちにとっても、それは非常に悲しく、落胆させられる。プライド、傲慢、利己的さ、自己中心的な態度がどれだけ頻繁にあなたを支配していることか。そして、中にはそれに気づかなくなっている人たちがいる。ああ、人々が愛の律法の武器を振るい、これらの事柄について敵に対して攻撃的な立場を取り、心の中にある主の愛に対して委ねていないという最初の兆候があるや否や愛の律法の武器を取り出すなら、ファミリー全体の霊にどれほどの違いをもたらすことか。

*

  95.あなたがアフェクションを示し、互いに愛と積極的な気遣いを示す時、それを受け取る人は、あなたを通してわたしの愛を感じている。彼らがあずかっているのはわたしの霊だ。あなたが忠実に他の人たちに注ぎ出すなら、わたしは忠実にあなたのラブ・カップを満たす。あなたが注ぎ出すなら、わたしが注ぎ入れるので、あなたはわたし以上に注ぎ出すことは決してない。

  96.他の人たちがあなたを通してわたしの愛に触れられる時、彼らもまた、他の人たちに愛を示したくなる。それは連鎖反応となる。受け手は、次に与え手となる。与え手もまた、わたしから、また他の人たちから、兄弟姉妹から受け取る側となり、あなたはホームにおいて、わたしの愛が再び自由に流れるのを見るようになるだろう。

  97.あなたがたは真に、わたしの愛で溶け合わさった心の家となるだろう。わたしはファミリーに再びそれを見たい。わたしは霊の同胞愛、日々兄弟姉妹や共に住む人たちのために命を捨てることをいとわない態度を見たい。そして、彼らにわたしの愛、わたしの気遣い、思いやりを示し、彼らの荷を軽くするために、あなたがたが何でもできることをするのを見たい。

  98.この愛を分かち合い、愛の律法という武器を振るうなら、わたしが偉大な、素晴らしいことをするとわかるだろう。それは敵の攻撃を払いのけるばかりか、あなたはわたしの愛と言葉という堅固な土台の上に煉瓦を一つ一つ積み重ねて、美しいホームを築くようになるだろう。そして、そのホームに入る人はすべて、平安、安息、わたしの愛と霊の安息所を見出すだろう。

*

  99.愛の律法の武器を正確に、そして攻撃的に振るうには、大いなる謙遜が必要だ。それには、わたしの霊をまとい、わたしの性質をまとうことが必要だ。わたしは愛であり、わたしはあなたにわが愛の器になってほしいからだ。あなたが切実にそれをほしがっているなら、そして、愛のベッドでわたしとの時間を取り、わたしの愛と、わたしが他の人たちに対して抱く思いで満たすよう求めるなら、わたしはあなたに、わが愛の贈り物を与えることができる。

*

  100.わたしの愛はとても強烈で、あらゆるものを包む。そして、わたしは一人一人に特別な愛を抱いている。そうだ、あなたに対してもそうだし、あなたのそばにいる兄弟、姉妹、メイト、チームワーカー、同僚に対してもそうだ。彼らは皆、わたしにとってとても貴く、大切なので、わたしを深く喜ばせたいなら、そしてこの愛の律法という武器を本当に攻撃的に使いたいなら、あなたは、すぐそばにいる人に対してわたしの愛の経路、器となれる方法を探すだろう。

*

  101.(ダッド:)愛の律法の武器は、毎日外に出て失われた魂に証しし、魂を勝ち取ろうという意欲を与える一番の要素だ。キリストの愛があなたに迫っているゆえに、あなたは外に出て他の人たちに主の愛を証しするたびに、愛の律法の武器を振るっていることになる。主への愛と失われた魂への愛がないなら、外には出ないだろうから。そのようなあなたに迫る、駆り立てるような意欲がないなら、あなたは自分の肉と個人的な願い、時間、エネルギーを犠牲にして外に出たり、失われた魂に手を差し伸べたりしないだろう。

  102.愛の律法の武器は、完全な非利己的さ、主の御心への完全な譲渡、互いのために命を捨てるという完全な犠牲だ。少し利己的になったり、意地悪になったり、他の人よりも自分を高めそうな誘惑に駆られるような状況が生じた時に、いつでもこの武器を使うなら、敵のわざを滅ぼし、闇を滅ぼす白熱した清い光線をもう一筋放つことになる。

*

イエス・キリストが神であり、私のために死んだのであれば、私がイエスのために払えるどんな犠牲も大き過ぎはしない。--C.T.スタッド(1860-1931)

  103.愛されていると感じる時、誰かが自分を気遣ってくれると知っている時、誰かにとって自分が大切な存在である時、人生は生きる価値があると感じないかい? 霊感、強さ、励ましが余分に後押しされるのではないかい? わたしはわが霊と言葉、愛、慰めを通して、その人にそのメッセージを伝えようと懸命に働きかけているが、多くの場合、わたしはあなたを通じて、わたしの愛の目に見える現れを示したい。

  104.どうか、手を差し伸べ、触れるためのわたしの手になってくれないか? 誰かをしっかり抱きしめるわたしの腕になってくれないか? どうか、キスするわたしの唇、愛と慰めと励ましの言葉を語るわたしの舌になってくれないか? どうか、わたしの目になって、愛と受容と肯定の霊で輝いてくれないか? どうか、他の人の心の叫びに耳を傾ける、わたしの耳になってくれないか?

  105.あなたはわたしと、わたしの愛の、目に見える現れだ。あなたはその面でどれだけ良くやっているだろうか? あなたはどれだけ他の人たちにわたしの愛を示そうとしているだろうか?

  106.あなたがたの多くは、プライドや、人からどう思われるだろうかという恐れによって妨げられている。あるいは、あなたはその人があなたからの愛やアフェクションを必要としていないと思っているのかもしれない。だが、そう見えようが見えまいが、誰でも愛を必要としている。誰でもアフェクションを必要としている。誰でも、わたしが彼らを気遣い、愛していると知る必要がある。そして、わたしはあなたがこの愛の経路、器になるよう願っている。

  107.あなたが踏む愛の一歩一歩、積極的な気遣いのすべては、愛の律法の武器を攻撃的に振るっているということだ。この武器は攻撃用の武器なのだ。それを利用すると心に決めなさい。敵に対してこの武器を振るい、兄弟姉妹を強める方法を探さずに一日を過ごすことのないようにすると、心に決めなさい。

*

  108.愛の律法の武器を利用しようと必死になり、わたしが抱く愛と思いやり、気遣いを示す方法についてわたしを尋ね求める時、あなたはわたしが必ず、導きと指導、わが霊のチェックへと導き、どのようにすれば敵に対してこの武器を一番良く振るえるかを示すと思ってよい。

*

  109.愛の律法の武器を使う時、あなたは個人的に勝利を得るようになるばかりか、兄弟姉妹を敵の攻撃から守ることにもなる。というのは、あなたが彼らに愛を与えるなら、ある意味で、力の場を強化しているからだ。全員が心と思いと体と霊を一つにして、愛の内に団結するなら、あなたがたは敵を敗走させる非常に力強く偉大な勢力となる! あなたがたは敵を愕然とさせるだろう。そして、敵は、自分に対抗している勢力、つまり、愛の勢力、わが愛の律法の勢力には到底かなわないと知る。

  110.この武器は、正確に振るわれるなら、敵の王国に敗北をもたらす。それを使い、振るい、積極的に実践する方法を探しなさい。そうすれば、失望することはないだろう。その結果と、獲得される勝利は、あなたがたの誰も今まで見たことのようなものとなる。すべての人が強められ、新たにされる。すべての人が愛情深くなり、互いを引き上げ合うからだ。わが新しいファミリーは将来、そのような状態へと進軍しなければならない。わが愛の律法を使うことで、皆、一つの体、希望、愛に結ばれるのだ。

*

  111.愛は宇宙最大の力だ。だから、わが愛の律法が宇宙で一番偉大な武器であるのももっともではないか? サタンは愛を憎む。彼のすべて、その性質、霊、ゴールは、愛の反対を推し進める。彼は、憎しみ、暴力、傷、抑圧、うつ、落胆、非難を推し進める。だが、わたしの愛を通して、そして愛の律法の武器を使うことによって、あなたは、平安、愛、希望、喜び、幸せ、チャレンジ、興奮、慰めといった、とてもたくさんの美しい賜物をもたらす。これらすべては、わがファミリーの多くの人々が慕い求めているものだ。

*

  112.(ダッド:)それぞれの人が持つ愛の律法の武器は、すべて異なる。一つ一つがその人の強さと弱さに応じてあつらえられている。中には、親切な行いをしたり、自分が持っている物を困っている人に分け与えたり、あるいは自分の望みや願いを犠牲にするという面で元々強い人たちもいる。だが、愛の律法に関する他の面で弱い所があるかもしれない。

  113.あなた個人の愛の律法の武器は、あなたの弱い面を助ける。それを振るうなら、愛情深いこと、親切なこと、犠牲的なこと、その他、その時に試されているどんなことをもするための余分の強さと力が与えられる。あなたの個人的な武器がどのようなものか、そして、愛の律法に関してどのような面で助けになるのかを主に尋ねなさい。自分の弱い面がどこなのかがよくわからないなら、祈って主に尋ねなさい。そうすれば、主は告げて下さるだろう。

*

  114.どのようにすれば、実生活において愛の律法の武器を攻撃的に使えるのか、どうすればそれを振るうことに熟達できるかを示すよう、わたしに求めなさい。自分が試みられるような何かが起こるのを待ってはいけない。そうすると、それは防御用の武器になってしまう。

  115.いつでもこの武器を兵器庫に持っていて、敵のにおいを嗅ぎつけたり、鳥があなたの髪の毛に巣を作ろうという兆候が少しでもあれば、すぐにもそれを取り出す準備ができているようすることを、あなたの毎日の祈りに含めなさい。防御し、攻撃に出なさい。準備し、警戒していなさい! 愛している! 愛、万歳!

どうすれば愛の律法を霊的な武器として使えるのか?

  116.(ママ:)敵が利己的さ、憎しみ、どん欲、暴力、死であるなら、愛と、創造し、いやし、団結させ、修復する愛の力は、敵の攻撃と邪悪さに対する完璧な解毒剤です。まるで、電気をつけて、闇に少しの場所も与えないようにするかのようです。ダッドはよく、愛は宇宙最大の力だと言いましたが、主はこのGNの後の方で、その概念をさらに詳しく説明されます。

  117.イエスは、愛の律法を、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また自分を愛するように隣人を愛すること」と言い表されました。また、別の箇所では、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」(マタイ7:12)と言われました。現実的に、毎日これを霊の武器として使うにはどうすればよいのでしょう?

  118.この部門でさび付いてきていて、どこから始めればよいのか幾つかアイデアが必要だと感じているなら、ここに、恋人の中の恋人である主から、幾つかの助言があります。これらは、愛の筋肉を引き伸ばし、愛の力をもっと効果的に使い始めるための方法の数例です!

  119.(イエス:)愛の律法に生きるというのは、愛に生き、すべてのことにおいてわたしのようになることだが、わたしの非常に大きな部分を占めるそこに特別な焦点が当てられている。これから、幾つかのことをあなたがたに思い起こさせよう。これらは皆、愛の律法に生きることに含まれる。突き詰めるなら、あなたがするすべての行いに心からの愛を増し加えるということだ。

  120.* アフェクショネイトになる。

  121.愛情深いというのは、アフェクショネイトであるということだ。この二つは、ほとんど一つだ。もっとハグを与えなさい。普段の朝のハグや、別のホームから来た誰かに会った時とか、しばらく会っていなかった人に会った時以外にも、誰かにハグするのに良い時というのはたくさんある。話している時、話した後、誰かの隣に座った時に、ハグしなさい。

  122.触れることも大切だ。話している相手に触れ、その人の腕や手を握り、ハグし、腰に手を回しなさい。誰かと話している時や、さらには一緒にどこかに行く短い間にも、手をつないだり腕を組んだりしなさい。祈る時、手を握りなさい。誰かのそばを通り抜けたり、その人に脇によけてもらわなければならない時、優しく触れたり、アフェクショネイトに触れたりしなさい。人間には肉体的接触が必要であり、アフェクションは愛を示す。だから、触れ、愛を伝え、アフェクショネイトになるためのどんな理由をも利用しなさい。

  123.アフェクションの二次的な益とは、プライドを壊すことだ。肉体的に触れあい、ちょくちょくアフェクショネイトになっている時に、その人とよそよそしく感じることはなかなかない。タッチは安心させ、慰め、あなたがたを結びつける。また、プライドやよそよそしさができるのを防いでくれる。

  124.また、他の人が好むたぐいのアフェクションに関心を寄せ、その人がどう反応するか、またその理由に敏感になりなさい。たくさんのアフェクションを与えたり受けたりすることに慣れていない人は、始め、ためらったり自分を抑えたりするかもしれない。彼らは驚いたり、アフェクションが嫌いかそれを避けているように見えるかもしれない。それがアフェクションに慣れるかどうかの問題なのか、理由は何であれ、ある特定の触れ方をされるのがあまり好きでないのか、他のタイプのアフェクションの方が好きなのかを知るようにしなさい。また、わたしがここで言っているアフェクションはいかなる意味でも性的なものではない。何かがそのように見られているなら、それはしない方が賢明だ。あるいは、そのような印象を与えるのを避ける方法をわたしに尋ねなさい。

  125.* 他の人と、他の人たちの必要にもっと気づくことを学ぶ。

  126.他の人たちに対してもっと敏感になり、自分の周りで何が起こっているかや、周りの人たちが何を考え、感じ、必要としているかに気づくこともまた、成熟することの一部だ。それは成長であり、自分よりの他の人の必要を優先することだ。それは、往々にして、周りの人の必要を満たすためにわたしが呼んでいるのはあなたであることに気づくことだ。だが、それらの必要に気づかない限り、あなたにはそれができない。

  127.明らかなことから始め、それから、もっと学び、もっと気がつき、注意できるようわたしに求めなさい。誰かが何かを必要としていると知ったなら、それをあげるか、その人のためにそれを手に入れるよう努めなさい。助けを申し出なさい。その人がしなくてはならない仕事、子供、クラスの準備、洗濯物などを。フリータイムに誰かが一緒にいてくれるのを感謝すると思える人と一緒に、何かをしなさい。その人が幾らかの励ましやカウンセル、わたしからの愛を必要としているか、それがあれば感謝すると気づいたなら、わたしからのメッセージを受け取りなさい。皿洗いのパートナーがあまりやりたくないような役割をするよう申し出なさい。

  128.あなたが応じることのできる様々な必要は限りなくある。明白な必要もあれば、あなたが愛の目で見始めない限りそれほど明白ではないか、全く明らかではない必要もあるだろう。だが、愛による幾らかの気遣いと関心があるなら、あなたはわたしが応じてほしい必要を感じ取ることができ、たとえそれが犠牲であっても、それを行うことができる。

  129.他の人との相互関係において、特に社交的な状況や共同生活上の状況においては、積極的になり、偏らないようにしなさい。これは、人の言うことをよく聞き、偏らずに耳を傾けることと深く関係している。いつも付き合い慣れている人たちや話し慣れている人たちとばかり一緒にいないで、誰か新しい人や、今までと違う人に手を伸ばしなさい。オープンになり、新しい友達を作りなさい。あるいは、ただ、いつもと違う人たちといつもと違うことについて話しなさい。愛情深くなる以外にも、これは非常に興味深い学習体験になりうる。

  130.自分のボディー・ランゲージに働きかけ、それを、もっと人を受け入れ、歓迎し、謙遜で、愛情深いものにしなさい。たとえば、誰かがあなたに話しかけている時や、ホーム・カウンシルで誰かが意見を言っている時にうなずきなさい。これは、「あなたの言いたいことがわかります。良いポイントですね」と言っていることになる。挨拶する時にはその人の目を見て、ほほえみなさい。誰かが通りがかっても話しかける時間がないなら、ウインクするか、ほほえむか、うなずくかしなさい。仕事をしている時に誰かがドアをノックしたなら、椅子から立ち上がったりベッドから起きあがったりして、その人にハグし、部屋に招き入れ、椅子を勧めなさい。誰かから何かを取ってほしいと頼まれたなら、ほほえむか、手に触れてそれを渡しなさい。

  131.あなたの手と腕は何をしているだろうか? あなたの姿勢は? たとえば、腕を組んでいると、普通、よそよそしいか、冷淡に見える。腕を両脇に降ろすか、何かにもたれかかりなさい。あるいはそれより良いのは、アフェクショネイトになり、話したり接したりしている相手に触れることだ。あなたがリラックスし、楽にしているように見えるなら、普通、相手の人もあなたと一緒にいて気が楽に感じ、あなたもその人と一緒にいたり、話したりすることを楽しんでいるように相手に感じさせる。

  132.* 非利己的に与える。

  133.これは、この一文だけで明確だ。見返りに何かを得られるから与えている時、それは本当に与えていることにはならない。もしかしたら、あなたは誰かに何かを貸していて、頭の中で、それがもっと悪い状態になって帰ってくるかもしれないという心配に悩まされているのかもしれない。あるいは、自分の時間を与えなくてはならず、それがあまり嬉しくないのかもしれない。もしかしたら、お返しに何かをしてくれると感じる人には喜んで何かをするけれども、あなたに「返す」方法がないと思える人だと、与えるのにためらうのかもしれない。

  134.それらの思いや感情、心配、「悩み」を、わたしに預けなさい。そうすれば、わたしは、あなたが後悔や失ったという思いを抱かずに与えられるように助けよう。次に、周りを見回して、自分には何の得もない、何か愛情深い行為を探して、それでもあなたにどれだけのものが返ってくるかを見なさい!

  135.非利己的に与えることは、わたしへの信頼と依存を高める。それは、自分が本当に何のためにここにいるのかを思い出させる。幸せになり、思ってもみない時に「見返り」が来ることで、あなたは驚くだろう。そして、それはそれ以外では手を差し伸べなかったであろう人たちとの間に、強い愛の絆を築く。

  136.自分の持ち物を与える。

  137.時間を与える。「交換条件」ではない何かを犠牲的に行いなさい。たとえば、ゲットアウトの時間に赤ちゃんを連れて行くと申し出る、親やティーチャーが個人的なワードタイムを取れるように、子供にワードクラスを教える、疲れている人や忙しい人に代わって皿洗いをする、シェパードがそれをしなくてすむように、ホームのための霊的アクティビティーを計画することを申し出るなど。

  138.愛とアフェクションを与える。

  139.とりなしの祈りの賜物を与え、困っている人たちのためにわが王座の前でとりなす。

  140.持っているものを与える。そうすれば、あなたはわが力と供給の蔵を開けることになる! あなたは、与える時だけ、わが祝福のための真空を造り出すことができる!

  141.* 自分のエチケットを見直す。

  142.中には、マナーは古くさく、時代遅れだと考えている人たちがいる。だが、実際、これは愛を示すことの大きな部分を占めるのだ。感じよく、礼儀正しくなるために余分のステップを踏み、自分にできることをするのは、愛情深い行為だ。

  143.誰かの会話を遮らなければならない時には、「すみません」と言いなさい。「お願いします(Please)」や「ありがとう」をふんだんに使いなさい。あなたが思っていることを読める人は誰もいないのだから、彼らは、あなたから見るもの、聞くもの、感じるものによってあなたを知るようになる。これには、人があなたに何かを与えてくれたり貸してくれたりした時に、それにふさわしい感謝を示すこと、会話を遮らなくてはならないならそれを謝る、敬意を込めて他の人に話しかける、借りた物や共有の物を良く管理する、その場を去る時に挨拶する、食卓でのきちんとしたテーブルマナーなども含まれる。

  144.* 会話上のエチケット。

  145.一般的なマナーとエチケットと密接に関係しているのは、他の人との会話やコミュニケーションの仕方だ。

  146.誰かと会話している時には、話し手に注意を集中し、話している内容を真剣に考慮しなさい。あなたにとってあまり興味深くない相手か、あなたのお気に入りの話題でなかったとしても、その人と話している時には礼儀正しくなり、関心を払いなさい。人の話をよく聞き、偏り見ないようにしなさい。会話が終わって立ち去る時、あなたは自分が言ったことしか覚えていないだろうか、それとも、相手が言ったことも覚えているだろうか? それについて考えるのは良いことだし、自分がどれだけ人の話に耳を傾けているかがわかるだろう。

  147.誰か他の人と話している時に別の人が来たなら、そして特に、それがフェローシップか社交的なイベントであるなら、できるなら第三者となっている人を会話に加えなさい。自分たちが話していたことを簡単に説明し、その人も一緒にいて会話に加わってほしいことを明らかに示しなさい。何かプライベートなことや個人的なことを話し合っている時には、後で会話を続けるか、ただ正直になってプライベートな会話をしているのだと説明しなさい。そして、できるなら何のことについて話しているのかを説明しなさい。たいていの人は、会話に加わってほしくないのは自分のことについて話しているからだと思いこむ。だから、そうではないことを必ず明確にしなさい。できるだけ暖かく迎えるようにしなさい。そうすれば、プライバシーが必要なまれな場合には、人々は理解してくれるだろう。

  148.プライベートな会話はできるだけプライベートな場でしなさい。他の人の前でひそひそ話をしてはいけない。

  149.誰かの会話を遮らなければならない時には、丁寧に謝る。

  150.* 自分の必要より他の人の必要を優先する。

  151.食事をよそうために並んでいる時、あなたは他の人を先に行かせるだろうか? 隣に座っている人に一番大きなケーキを勧めるだろうか? 誰かが何かを必要としている時には、自分のを差し出すだろうか? プロビジョンの物を他の人にまず選ばせるだろうか? あなたは真っ先に自分自身や自分の家族、友達のことを考えるだろうか? それとも、周りを見回して、誰が一番大きな必要を抱えているかを見るだろうか? パーティーに行く時には、周りを見回して、脇で立っている人を探し、その人と話す時間を取るだろうか? 考えてみなさい。そして、今日、変えなさい。

  152.* 自分たちのコミュニティーに敬意を払う。

  153.これはあなたがたの共同生活のホームと同時に、近所の人たち、地域社会、あなたが住む市にも関係し、勝利チームになることの多くの面と結びついている。あなたは、単なる自分の責任範囲や仕事範囲以上のものについて、ホームのために個人的な責任感を抱いているべきだ。あなたは、ホームや共有の場所をより良くするための時間を取っているだろうか? たとえ、映画の後に後片付けをしたり、食事の後に少し余分に皿を洗ったり、時々ホームの改善に手を貸したりなどといった小さなことであっても。任せられた仕事をするだけなら全く大したことではないが、他の人たちのためにもっと物事を心地よくするためにそれ以上のことをする時、それが愛の律法に生きているということだ。

  154.外部の地域社会に敬意を払うことの幾つかの例として、近所の人たちと良い関係を築く、庭をきれいに体裁良く保つ、できる時には地元の人たちを助ける、駐車する場所や、あなたの家や近隣についての何かの面、プロビジョンの荷をどこに降ろすかなどに関して、近所の人たちから来るいかなる要請にも礼儀正しく、親切にするなどがある。

  155.* 必ずしもあなたのお気に入りとは言えない、愛しにくい人たちを愛する。

  156.偏りのない愛を求めて祈り、ホームを見回して、誰のことをよく知らないか、誰のことを愛する努力を本当に払っていないかを見なさい。そして、その人にとって意味があり、励ましとなることは何かをわたしに尋ねる。

  157.あまり知らない人や、あまり「ウマ」が会わない人をもっと深く知り、関心や感謝を示すために格別の努力をしなさい。試み、愛するために一歩踏み出せば踏み出すほど、あなたはその兄弟と近くなるだろう。

  158.* 子供に対して積極的な関心と気遣いを示す。

  159.愛の律法に生きるというのは、一人の妻のビジョンに生きるということだ。あなたがたは皆一つのファミリーであり、ホームにいる子供たちはあなたの子供たちだ。あなたは彼らをそのように扱っているだろうか? あなたが子供に与え、関心を寄せる時、あなたが与える愛は何倍にもなって返ってくる。

  160.子供に愛と配慮、関心を示すことは、親やティーチャーに愛を示すことでもある。子供とその必要を知るようになると、彼らのために祈ろうという意欲や、チャンスがある時に彼らに注ぎ込もうという意欲を持つようになる。

  161.* 誰かを助けるために自分の計画を捨てる。

  162.ホームを助けるために、やりたいことやしなければならないことをあきらめることや、その日のあなたのスケジュールや計画に入っていない仕事をするよう自分から申し出るのはつらいものだ。だが、喜んで助け、他の人のために時間を与えようという態度を示すこともまた、ホーム内で愛の律法に生きることの大きな部分を占める。

  163.* 多くの罪を覆う愛を祈り求める(1ペテロ4:8)。

  164.毎日毎日誰かと一緒に暮らしていると、あなたにとって、その人の間違いや欠点、問題、変わった癖が非常に明らかになる。だが、いったん何かに気づいたなら、あなたには、それを気にするか気にしないかの選択がある。ホームを今のような勝利チームにするのを助けている、その人の素晴らしい資質のすべてゆえに、わたしを賛美し、感謝しなさい。ポジティブな方に集中し、ちょっとしたいらだちを愛で覆い、先に進むなら、あなたはずっと幸せになり、わたしの祝福を受け取るだろう! それだけが、長続きし、幸せな、良い結婚生活をうまく行かせる方法であり、それは愛によって小さな問題を大目に見る時のみ、長続きする。

  165.* 他の人たちについて、ポジティブで愛情深い考え方をする。

  166.良いことを考え、他の人たちの良い資質を数え、彼らの強さを感謝し、それを基にして考えるよう、自分に強いなさい。そうすれば、その人たちと接している時、あなたの行動や表現、言葉遣いは、おのずとあなたが考え、深く思っている良いことを映し出すようになる。積極的に良い所を探し、そこに集中するなら、あなたの霊全体がもっと愛情深く、非利己的に、謙遜になる。

  167.* たとえ人に気づかれないか、感謝していないと感じても、他の人たちのために物事をもっと快適にするために格別の努力をする。

  168.感謝の言葉や感謝の気持ちを期待せずに与えなさい。他の人のために何かをし、他の人のことを考え、一緒に住んでいる人たちのために、物事を特別で、幸せで、エキサイティングなものにしなさい。あなたにはそれほどアクティビティーのためのインスピレーションや賜物がないと感じても、それでもこれらの小さなことをすることで、ホームの幸せと団結のために与えることができる。

・ 皿洗いのお湯を換える。

・ 誰かが毎日デボーションの後コーヒー・カップを忘れ、決してあなたに感謝しないとしても、その人のカップを洗ってあげる。

・ テーブルをナイスにセットする。

・ 注意のサインを非難がましく、小言っぽく書くのではなく、感謝を込めた、ポジティブなものにする。

・ 誰かを見かけたらほほえむ。

・ 自分の一日や、負っている仕事についてポジティブに語る。

・ 何かについて誰かから感謝されたら、それが実際どれだけ大変だったかをその人に知らせようとするのではなく、ポジティブに反応する。

・ 料理している時、盛りつけなどをナイスでインスパイヤリングにするように努める。お金は少しもかからないが、すべての人にとって、食事の価値や質を高めてくれる!

  169.これらは小さな事柄の数例に過ぎないが、あなたはわたしの所に来て、どの面で自分は一緒に住んでいる人たちにとって物事をナイスでインスパイヤリングにできるかをわたしに尋ねるべきだ。そうすれば、わたしはあなたがこのような方法で他の人たちに愛を与えるのを助ける、小さなことや大きなことを示そう。あなたはきっと、わたしに尋ねたことを喜ぶだろう!

  170.* ゆるす!

  171.ただ、ゆるしなさい! それがただのちょっとした軽率なコメントや愛に欠けた行い、あるいはその人があなたに言ったことが気に入らなかったのであれ、何かのことで誰かをゆるすのに苦労しているなら、 それをわたしの所に携えて、荷を取り去るようわたしに求めなさい。問題を解決するためにその人と話す必要があるなら、あなたが抱いているかもしれない感情的な反応や、その状況についてのネガティブな気持ちを頭から取り除くために、まずわたしの所に来なさい。それによってあなたは、うまく問題を解消でき、あなたが必要とするゆるしは、清く、わたしからのものとなる。

  172.可能な時はいつでも、誰か他の人にネガティブな出来事や傷について言うことを一切避けなさい。そうするならあなたの思いの中でネガティブさが強まって、それを間違った霊で言ったり、間違った相手に言うなら、ゴシップにもなりうる。ゆるし、忘れなさい。あるいは、すぐに忘れられないなら、少なくとも誰にもそのことを言ってはいけない。それを言葉にするなら、記憶にもっとしっかりと刻み込まれ、乗り越えるのがもっと難しくなるだけだ。

  173.* 自分の行動が他の人たちにどのような影響を与えるかを考える。

  174.他の人たちの必要を気にかけなさい。静かにしていること、プライバシー、尊敬、バラエティー、励まし、その他何であれ。それらの必要を満たしてあげるために、自分の分を果たしなさい。

  175.考えるべき大切な事柄は、愛情深さという観点だ。あなたが考えるすべて、言うすべて、行うすべて、さらにはあなたがしないことすべてにおいて、「これは愛情深い行為だろうか?私は非利己的な愛を示し、ここをより良いホーム、より良い世界にするために、自分の分を果たしているだろうか」と自問しなさい。武器としての愛の律法は、大きな船に取り付けられた舵のようだ。それはゆっくりと、しかし確実に動き、最も大きな物すらも劇的に変えられる。だから、その歯車を動かして物事をより良い方向に進ませ、変えるために、自分の役割を果たしなさい。

  176.(ママ:)先ほどのリストからわかるように、日常生活で愛を示すことの大きな部分は、他の人たちの必要に敏感になり、気を配り、与え、マナーを良くすることです。古くさいように聞こえるかもしれませんが、マナーは愛を示すことの非常に大きな部分なのです!

  177.私はエチケットとマナーというテーマについてもう一つのGNを制作している所です。それが皆さんにとって祝福となるよう祈ります。ファミリーでは、その面が少し弱いです。もしかしたら、一緒に暮らす人たちを軽く見ているのかもしれません。みんながとても愛情深く良く受け入れてくれるので、油断したり、本来すべきほど互いをナイスに扱わない傾向があるのです。

  178.このように愛の律法に焦点を当てていることや、エチケットや気配りというテーマについて夫である主のカウンセルからまとめているものが助けになるよう祈ります。主よ、私たちが皆、もっと愛情深くなり、毎日の行動においてもっと忠実に愛を示せるよう、助けて下さい。

代価を考慮しなさい。それから、報酬を考慮しなさい。最終的にどちらで失う代価が高いかを判断しなさい。いったんその栄誉のために戦うという決意をしたなら、決して振り返ってはいけない。勝つという決意はすでに為された。戦闘とは、断じて、考え直す時間ではない。自分の言葉、思考、退去したいという気持ちから、それを消し去りなさい。あなたは恐れとは何なのかを知りもしない。あなたをかき立てるのは、ただ、戦士、克服者、勝者という言葉のみだ。その他すべては戦闘の興奮の中にかすんでいるのだ。--ダグラス・マッカーサー元帥(霊界から語る)

注ぎ出すことができるように、満たされなさい

  179.(ママ:)愛の律法により完全に生き、主の愛をもっと自由に与える妨げになっているものはたくさんあります。ここに、私が思いついたものを幾つか挙げましょう:

  180.* 愛情深くなるという習慣がなくなると、もう一度始めるのがより難しく、一つ一つの小さなことがおおごとのように思える。

  181.* 忙しさは愛を妨げうる。愛には時間がかかる。他の人たちの必要に気づき、それを満たすには、ペースを落とさなければならない。自分の優先順序を主の優先順序で再調整し続けないと、愛を与え、ここそこでちょっとした必要を満たしてあげることが不必要な時間の浪費に思えることがある。

  182.* 利己的さ。自分の必要が満たされることばかり気にかけすぎ、他の人たちの必要が見えなくなる。あるいは誰も自分の必要を満たしてくれないのだから、自分も他の人の必要を満たす責任を負っていないと感じる。

  183.* プライド。人からどう思われるかを恐れる。あるいは、自分は「大切な仕事で忙しすぎる」から手を休めてちょっとした愛情深い行為などできないと感じる。プライドはまた、あなたを他の人たちから引き離し、近くなろうという願いをなくす。

  184.* 怠慢さ。誰かを深く知り、どのように愛し、何を本当に感謝するかを知るには時間がかかる。特に、その人たちがあなたと違う性格か、元々しっくり行かない場合は、その人を知り、よく理解するには努力を要する。

  185.でも、私が考えた一番大きな理由の一つとは、きっと皆さんの多くも共感できると思いますが、消耗し、自分は空っぽだという気持ちや、自分には与えられるものがない、あるいは与える余裕などないかのような気持ちでしょう。与えようとしても、自分の中に十分な愛がない時、あなたの愛は尽きて、無味乾燥、不誠実、あるいは不十分のように感じます。

  186.そうなったなら、おそらく主との時間をもっと費し、特に、主の素晴らしく、偏らず、惜しみなく流れる愛で満たして下さるよう、主にお願いする必要があるとわかります。何と言っても、愛の律法の第一条は、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」です。ですから、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛する」という部分を実践するのに苦労しているなら、もしかしたら、すべての真の愛を与えて下さる私たちの夫、イエスとの時間とより深いつながりがもう少し必要なのかもしれません!

  187.また、もっと受け取るには、与え始める必要もあります。これは両方向に作用するのです。主との時間が少し無味乾燥になっているか、凝り固まっている、形式張っていると気づいたなら、もしかしたらそれは、主が与えられたものを十分注ぎだしたり与えたりしていないからかもしれません。他の人たちに与える時、主があなたに注ぎ返すための真空ができます。ですから、補充されるには、あなたに必要な主との時間を取ることによって、サイクルを完成させなければなりません。

  188.夫である主との時間を取り、主の愛で満たして下さるよう主に具体的にお願いし、主を親密に愛し、それから主の愛を他の人たちに与える方法を探すなら、あなたは再び、心と人生に愛のサイクルを流れ始めさせるようになるでしょう。そして間もなく、与えるよりも早く補充され、新たにされるようになります。私たちの恋人、主は、そのように働かれるのです。主以上に与えることは決してできません!

霊的武器を使うための秘訣: それをあなたの一部にしなさい

  189.(ダッド:)あなたたちは時々、愛の律法についてのレターを読み返す必要がある。以前読んだことはあるが、今、とても多くの変化を経てきたので、もし主と私が与えたカウンセルを復習するつもりなら、この武器を全く新しい見方で見なければならない。

  190.あなたたちの多くは、愛の律法を、そこにいてあなたの気を狂わんばかりにさせている誰かに耐えたり、ここにいてあなたの神経を逆なでする誰かに我慢するためのものとして見てきた。だが、それでは愛の律法という武器を、自分の一部ではない剣や銃のように使っていることになる。

  191.私は「愛の律法に生きる」と言ったが、あなたはどのように何かに生きるのだろう? それはあなたに欠くことのできない深い部分となり、あなたはもうそれを、身につけたり、強いられたりする何か別のものとは見ない。あなたの人生の一部になる。あなたはそれに生きているのだ。

  192.これらの武器を実生活に溶け込ませ始める時、それは「感情」対「主がせよと言ったこと」の問題にはならないはずだ。あなたは、それを自分自身に深く溶け込ませて、しばらくすればそれを使うのが自然な反応となるよう戦うべきだ。愛の律法の場合では、他の人の内にある良い所とイエスに強く集中し、主の御霊で溢れんばかりに満たされ、とても多くの愛を祈り求め、とても多くの行動を愛に基づかせることで、醜いものや利己的なものが一切心から洗い流され、愛情深い反応があなたの第一の反応になるようにしなさい。

  193.それが主の愛だ。あなたへの主の愛はそのようではないか? あなたは、主が上の方にいて、あなたが今日犯した間違いについてカンカンになったり、がみがみ言い、その後でとにかく優しくなろうとしているとは感じない。主の愛はまさに抗しがたいほどで、あなたがすべての欠点にもかかわらず、主を喜ばせようと最善を尽くそうとしている誠実な心を見られる。そして、ややもするとうんざりしそうな弱さでも、主の心の中では、あなたがよろめいている時に励まし、元気づけたいという憐れみを駆り立てるのみだ。少しでも腹立たしさや怒りがあるとしたら、それはあなたを引き下ろそうとしている悪魔とその子鬼たちに向けられている。

  194.愛の律法と兄弟愛の武器は、あなたの心の中にそれと同じ愛、それと同じ良い反応、理解、他の人への信仰を活性化させることができる。また、あなたは他の霊的武器も併せて使うようにできる。賛美すればするほど、賛美が習慣になり、良い第一反応となる。祈れば祈るほど、祈りがあなたの一部になり、あなたはおのずともっと祈り深くなる。霊の武器を自分の一部にすることは、願っている変化を遂げることや、敵が邪悪な計画をあまりにも進めすぎる前に彼を打ち負かせるかどうかの鍵だ。(以上、メッセージ)

自分から始めなさい!

  195.(ママ:)イエスからの次のメッセージは、必要に気づくのに苦労している人たちにとって、とても良いものです。今までのメッセージを読んで、どのようにすれば他の人たちの助けになれるかがわかることが滅多にないので、どうすれば愛の律法を実生活の一部にできるのだろうと思っているなら、これが励みになるでしょう。あなた自身の生活から、また、引き伸ばされ、成長するというあなた自身の必要から、この革命を始め、そこから進んで行きなさい。

  196.(イエス:)この武器を攻撃的に使うには、しばしば先んじてそれを使うことだ。どういう意味だろう? それは、愛の武器を「先制攻撃」用の武器として使うということだ。孤独に感じる前に、他の人たちに手を差し伸べなさい。嫉妬を抱く前に、自分が持っているものを分け合いなさい。愛に欠けた言葉を言う前に、相手の人を高める愛情深い言葉でそれを封じなさい。愛によって迎え撃つのは良いことだが、先制攻撃はさらに良い! 愛情深い方法を習慣や第一の反応にできるなら、非常に多くのネガティブさは、あなたの人生に入り込むチャンスさえ持たなくなる。

  197.これはしばしば、ただその面で自分を鍛え、自分の周りの霊の力の場を強めたいという理由で、愛の律法の使い方を強める事柄を意識的に行うという意味だ。他の人たちとの相互関係で何かがうまく行かなくなるまで待ったり、ホームや人間関係に明らかに愛が必要だとわかるようになるまで待ってから、もしかしたら愛の律法を実践する上でもう少し積極的になるべきかもしれないと気づくようではだめだ。明白な必要や問題があるというのは、それまで十分攻勢に出ていなくて、それが目立つぐらい状況が極端になったということなのだ。

  198.そうなると、すぐに攻撃したとしても、あなたはすでに幾分守勢に回っていることになる。だが、残念なことに、とても多くの人たちは愛の律法をそのようにしか使わない。すでに落ち込んでから賛美の武器を使うようなものだ。全く使わないよりはいいが、そもそも攻撃に対処しなくてすむよう、防御を強めるために使う方がどれほど良いだろうか!

  199.愛の律法は、あなたがたも皆知っているように、とても広く、人生のすべてについてだと言ってもよいほどだ。あなたは調和の内に暮らし、誰も傷つけまいとするが、必要や問題がある時も、実際の愛の行いや、愛の言葉、愛の積極的な行為を控えてしまうことがとてもよくある。誰かが本当に参っているか、プレッシャー下にあって、本当に本当に助けが必要に見えてから、やっとその人のために何かをしてあげることがよくある。誰かが本当に本当に孤独にならないと、セックスやアフェクションの必要が満たされない。長い間、自分はどこにも属していないと感じながら、「外部者」でいる期間を経てからでないと、他の人たちや、フェローシップの輪に加えてもらえない。だが、この武器はそうやって戦うのではない。

  200.このような問題が生じた時に修復しようとするのは良いが、この武器を使って絶えず攻勢に出て、これらの状況が決して生じないか、滅多に生じないようにする方がもっと良い。だが、それはどういう意味かというと、あなたは自分が必要を目の当たりに見えるかどうかに関わらず、意欲をかき立てなければならないということだ。さあ、直面しよう。率先してやるより、需要に対応する方がずっと簡単だ。あなたがたのほとんどは、強盗に襲われて倒れた哀れな男に対しては、かなり愛情深い(ルカ10:29-37)。あなたがたのほとんどは、かなり良いサマリヤ人であり、愛のその面をかなり心得ている。

  201.だから、愛を武器として真剣に攻撃するという面で、さらに一歩進むには、自分の行い、語る言葉、取る行動を、誰かが本当にそれを必要としているという理由でしていることとしてではなく、自分には本当に練習が必要で、わたしが示していることは何でもすることに鍛錬される必要があるという理由で、ほとんど自分のためにしていることとして見なければならない。

  202.あなたは愛の律法に生きることを、敵からのとても多くの攻撃に対する予防策として見るべきだ。あなたは、必要が生じる前にそれを満たすことをゴールにすべきだ。不和が入り込む隙がないほどの強い愛の絆を持つこと、利己的さが存在しなくなるほどに、互いにとても積極的で非利己的になること、真の孤独が問題にならなくなるほど、他の人を含め、必要に敏感になること、それをゴールにすべきだ。

  203.その過程で、わたしの愛をもっと使い、与え、わたしにその愛を求めれば求めるほど、あなたは霊の内でもっと強くなる。愛によって打ち消されるタイプの特定の攻撃に対してばかりか、敵があなたに投げかけるどんなものに対してもだ。わたしの愛はパワフルだ。それはほとんどどんな傷にも効く軟膏だ。それは肉体的にであれ、霊的にであれ、ほとんどどんな疾患をもいやす源だ。本当に驚異的だ!

  204.愛の律法の武器をプロアクティブに使うことに戻ろう。必要や問題が生じるまで待ってはいけない。誰かに愛のこもった感謝の短いメモを書くといった単純なことでさえ、あなたが愛を実行に移す理由は、このような思考過程が動機となっているべきだ。「ふーむ、私は最近、愛の律法の面であまり自分の限界を広げていないな。最近、兄弟姉妹や仲間であるメイトたち皆のために愛を行動に移すために、私は何をしただろう? 最近、私はどのようにして、普段のホームの義務で求められている以上のことで、誰かのための主の愛になっただろうか?」あなたはそのような考え方を持って、自分が十分注ぎだしているかどうかにいつも気づいているようにする必要がある。そして、もしそうしていなかったのなら、あなたが必要だと思おうが思うまいが、その時が、行動、つまり愛の行動に出るべき時だとわかる。

  205.言わせてもらおう、それは必要なのだ。あなたはそれを必要としている! あなたの方が、愛を注ぐことを必要としている側だ。あなたの霊は、そのチャレンジ、成長、愛ゆえに他の人たちに色々なことをしてあげるという鍛錬を必要としている。それはまた、あなたが夫や妻や友に対して抱く愛ゆえでもあり、わたしもあなたがた全員をそのように見ている。そして、そのようにして互いを見るよう求めたのだ。そうでなければ、必要がそれほども大きいと判断する時だけそれを満たしてやるというのは、肉のわざになってしまう。それはカップ一つ一つが溢れんばかりに満たされていることを確かめるよりは、むしろ、最低限の必要だけを満たすという形式的なものになる。

  206.けれども、良い知らせがある。行動様式を変えるのは、思ったよりずっと簡単なのだ。愛においてもっとプロアクティブになり、わたしの愛を現す方法や、愛を行動に移す方法を常に探しているなら、たびたびそれをしている内にもっと簡単になるばかりか、それほどおおごとでも、大それた出来事でもなくなる。

  207.ハグするのもその一部だ。親切な言葉を言うのもその一部だ。心からの励ましを言うのもその一部だ。仕事を手伝ったり、ちょっとした頼み事を聞いてあげるのもその一部だ。ほめ言葉もその一部だ。そして、それらは皆、簡単な、小さな事柄なのだ。だが、誰かが特にがっかりしているように見える時、あなたはどれだけしばしば、励ましの言葉を差し控えただろうか? 朗らかで幸せに見える人に励ましの言葉をかけてはどうか? その人はそれを感謝するだろう。それに、誰が知ろうか、あなたは落胆に向かっていた誰かを、全く落胆せずにすむようにしたかもしれないのだ。

  208.どうして、一人の親、あるいは両親二人ともが本当に参ってしまったように見える時だけ、子供を見てあげようと申し出たり、ペアレンツ・タイムに加わるよう招いたりすべきだろうか? それをもっと頻繁にするなら、彼らの荷が耐えきれないほど重くなる前にあなたがそれを軽くしてあげたゆえに、彼らは全く参ってしまわなくてすんだかもしれない。

  209.わたしはそうやってあなたがたを世話したい。だが、あなたはわたしに対しても同じような考え方を持つことがとてもよくある。絶対に、どうしてもそれ以上負えなくなった時だけ、わたしに荷を委ねるのだ。だが、わたしはそのような条件を決めない。わたしは、あなたが極限まで疲れ果てた時だけわたしの強さを呼び求めるようにとは言わない。わたしには大きすぎるものは何もないが、小さすぎるものも何もない。わたしはあなたの最も大きな心痛同様に、ほんの小さな気がかりをも慰める。どんなことでも、わたしの所に携えるだけ「正当な理由」ができるまで取っておく必要はない。そして、互いに対しても、あなたの良い言葉や愛の言葉を取っておく必要は全くないのだ。

  210.ある意味で、焦点を外側から内側に変えると助けになるかもしれない。逆に聞こえるかもしれないが、愛の律法に生きることにおいては、そこから始める必要がある。あなたから始めるのだ。愛は家から始まる。そうだろう? では、どのように世界を変えるのだろうか? 自分から始めるのだ。だから、より完全に愛の律法に生きようとしている時には、「ふーむ、誰か私の愛でさえ必要としている人はいるだろうか?」という態度で見てはいけない。「私はどれだけの愛を与えただろうか? 私はどれだけ注ぎだしただろうか?」という見方で自分を見るべきだ。

  211.人というものはプライドがあり、しばしば、長い間自分の必要を隠しておく。誰もが、たいていの場合、勝利しており、賛美に満たされ、ポジティブであるように見せようと懸命になっている。だから、必要だけで判断するなら、多くを見逃すかもしれない。だが、いわば、自分がやっている頻度と「愛を与えるメーター」で判断するなら、あなたは絶えず与える必要がある。そして、与えれば与えるほど、もっと与えたくなり、その方法の方が、必要がおのずと明らかになるのを待つ場合より、もっと必要を満たせるようになる。

  212.また、愛の律法は大きなことだけに限らないこと、セックスだけではないことを覚えていなさい。それは、自分が扱われたいように他の人を扱うことなのだ。ほめ言葉をもらうのが好きなら、それを与えなさい。アフェクションや、愛を身振りで表してもらうのが好きなら、それを与えなさい。称賛されるのが好きなら、それを与えなさい。困難で骨の折れる仕事を手伝ってもらうのが好きなら、それも与えなさい。ああだったら、こうだったらいいのにとか、誰かがこれを手伝ってくれたらいいのに、働きかけているプロジェクトを誰かが認めてくれたらいいのに、誰かがただ「ハイ」と言って、愛していると告げるか、楽しいことに招いてくれたらいいのにと思うような事柄で、今まで一度も自分からそう言ったことがなく、一度も実現したことがなく、今まで通りの暮らしを続けてきた、すべての時のことを考えなさい。

  213.次に、他の人の生活でも毎日そういうことがあるに違いないと考えなさい。あなたが愛を必要とし、愛に対する秘めた欲求や願いを抱いているなら、他の人たちもそうだとは思わないか? あなたはどれだけの割合で願いや必要を口に表すだろうか? 50%か? 30%か? 10%? 5%? それ以下だろうか? 全く口に出さないことがとてもよくある。だが、必要はそこに存在するのだ。そうだろう?

  214.人生で、他の人が関係する望みすべてを考えなさい。ほほえみでさえ、必要だ。あなたは誰かを見て、「おはよう」と言う。そして、その人にほほえみ返してほしい。そうするなら、自分がその人を元気づけ、ほほえませたとわかって、自分も元気が出るからだ。あなた自身の生活をより良くするすべてのことを考え、それを他の人たちのためにしなさい。

  215.自分が愛をどれだけ外に出しているかをはかり、どれだけ与えているかをさらに考えるなら、もっと与えなくてはという良心の呵責が心に与えられることに驚くだろう。今、立ち止まって、一番最近、「義務以上の」愛、自分には期待されていないけれども、とにかく愛を与えた時のことを考えなさい。それでは、その前はいつだっただろう? その間の期間はどれぐらいだっただろう? どれだけの頻度なら十分だろうか? 一日に一度、愛情深い行いをすることだろうか? 一週間に一度だろうか? それを判断できるのはあなただけだ。愛にノルマをつけることはできない。だが、自分が愛の経路になっている時や、あなたの経路にあまり愛が流れず、少しひからびてきている時には、絶対自分でそうわかるはずだ。

  216.だが、あなたも知っているように、愛はブーメランだ。与えるものは戻ってくる。そして、その逆も言える(2コリ9:6)。それによって、もっと受け取りたければもっと与えるという責任はあなたにかかってくる。そして、受け取りたいから与えているのか、必要があるから与えているのか、ただわたしがそう告げたからという理由で与えているのか、いずれにせよ、本当に益を得るのはあなたであるのを覚えていなさい。満たされている最も大きな必要は、あなた自身の必要なのだ。あなたは愛の人、愛情深い人になるために造られた。そして、その愛を与えることで、あなたは他の人たちの必要を満たす以上に、自分の必要を満たしているのだ。愛を差し控えるなら、他の人たちではなく、あなたが一番損をする。

  217.だから、あなたは愛のメーターを点検しなければならない。あなたは自分がどれだけの頻度でどれだけ多くを与えたかを振り返る時間を取らなければならない。腕をなまらせることのないように、じっくり考える価値はある。おそらく、愛の出力をよく考えるなら、今よりもずっとたくさん与えられたはずだと感じる人がほとんどだろう。それは良いことだ。そうすべきなのだ!そこで、「ただそうすべきだから」与えることが肝心になる。わたしの愛を与えるのに悪い動機などない。そこから何か益を得ていたとしても、それは間違いではない。ただ、偏りなく愛することを確かめなさい。そうでないと、あなたが損することになる。非利己的に愛しているなら、あなたは自分自身を開いて、他の人たちからの溢れんばかりの愛も含め、わたしの祝福をあますところなく受け入れることになる。だが、偏った愛し方をしたり、ひいきしたり、愛し「やすい」人だけを愛するなら、わたしが祝福と愛という形によってお返しに与えたい祝福と愛も止まり、ふさがってしまうことになる。あなたは自分が与えた分に比例して受け取るようになる。(以上、メッセージ)

困難、危険、病気、死、分裂によって神の意志を行うのを思い留まるのは、チョコレート兵(戦争に行きたがらない兵士)だけだ。途中に獅子がいると聞いたら、真のクリスチャンは直ちにこう答える。「そんなものでは到底私の士気は高まりません。その脇に熊が一頭か二頭いれば、戦いに行くだけの価値があるでしょう。」--C.T.スタッド(1860–1931) [:チョコレート兵については、このレターに付随しているレターリンクのファイル#1にある、C.T.スタッドの元々の談話を参照して下さい。]

自己「診断テスト」

  218.(ママ:)ここに、皆さんが自問できる質問のリストを挙げましょう。愛の律法のどの面を改善すべきかを知る助けになるでしょう。それから、それらの面を主の下に携えて、どこから始めるべきかを尋ねることができます。圧倒されたり、一度に全部しなければならないと感じたりしてはいけません。もっと愛情深くなることを学ぶのは、しばらく使っていなかった筋肉を伸ばすようなものともなり得ます。ですから、一度エクササイズをしただけで、カウチポテトからプロの運動選手になることを期待してはいけません! でも、必ずそれに働きかけ、それらの筋肉を伸ばし、今までよりもう少したくさん与えなさい。そうすればあなたはすぐにもっと鍛えられ、ずっと幸せになり、人生もはるかに主の祝福で満たされるようになるでしょう!

[] 私は常日頃から、愛の律法の面で自分がどのような状態か、また、その面で進歩を遂げているかどうかを主に尋ねているだろうか? 私は毎日、あるいは毎週、この武器の使用方を向上させるためにどのようなステップを踏むべきかを、忠実に主に尋ねているだろうか?

[] 私は意識的に自分自身よりも他の人たちの必要を優先しているだろうか? それとも、「これは他の人たちにどう影響するのだろう?」ではなく、まず、「これは自分にどう影響するのだろう?」と考えるだろうか?

[] ホームでやることがたくさんある時や、ホームが何かの雑用やJJTに手が回らない時、私は、できる場所で、できる時には、それらの必要を満たすために手を貸すだろうか?

[] 誰かがどこかのスケジュールに入れないか、普段よりすることが多い時、私は率先して助けるだろうか?

[] 私は自分の子供の必要と、他の人の子供の必要を同じレベルに置くだろうか? 私は自分の子供と同じだけ、他の人たちの子供や若者の世話について気にかけているだろうか? 私はそれを行動や言葉、彼らとの接し方を通して示しているだろうか?

[] 私はたとえ一人でいたい気分の時でも、敢えて他の人たちと時間を過ごし、他の家族、シングル、若い人たちなどとフェローシップするだろうか?

[] 私は、普段あまり話さない人たちと話したり、特に親しくない人と一緒に食事をしたり、さらにはフリーデーに普通あまりそうしない人につきあったりする時間を取ることで、他の人を自分の人生に招き入れる方法を探しているだろうか? 

[] 私は自分の持ち物を他の人たちに喜んで分け合っているだろうか? それとも、自分の物に執着し、「どうしてもそうしなければならない」時や、誰かから特に頼まれた時しかそれを分け合わないだろうか? 

[] 私は持ち物に関してだけでなく、自分の時間や人生についても、「一切の物を共有にする」という態度を取っているだろうか?

[] 私は他の人たちの必要を気にかけ、できるならそれを満たしてやろうとするだろうか? 親がもっとミニストリーに時間を必要としているとわかったら、私は子供の世話を助けることを申し出るだろうか? 誰かが必要な物を買うためにお金を貯めているとわかったなら、私はギフトをあげるか、資金調達やリサーチを助けたり、そのために祈るなどによって、それを助けるだろうか? 私は彼らの必要を自分の必要と同じように扱うだろうか?

[] 何か本当にやりたいことがあっても、誰かの周りでそれをしたならその人に否定的な影響を与えるとわかっているなら、私はそれをするのを控え、自分よりもその人の幸せと福利を優先するだろうか?

[] フリーデーに外出を計画している時や、平日に出かける予定がある時、私は他の人たちに気を配って、何か外出中に買ってきてほしいものはあるか、一緒に街まで乗っていきたいかを尋ねるだろうか? たとえそれで余分の時間がかかるとしても、私は他の人たちのためにその時間を作るだろうか?

[] 私はホームの人たちをどれだけよく知っていて、彼らにとってどんなことが大切かに気づいているだろうか? 誰かをより深く知ることも愛であり、その時、あなたはその人がどんなことを一番感謝しているかや、必要としているかがわかる。

[] 私は「自分に何の得もない」ように思えても、他の人たちのために喜んで犠牲を払うだろうか? 私は夜の自由時間を使って、フェローシップや関心を必要としている人との時間を過ごすだろうか? 他の人の好みのアクティビティーをするために、自分にとって楽しいアクティビティーをあきらめるだろうか?

[] 私は、ホームの肉体的に弱い人や、特別な必要を持った人への配慮を十分示しているだろうか? 私はホーム・カウンシルやスケジュールの計画をしている時に、彼らの必要を考慮に入れるだろうか? 私は彼らに対し、また彼らについて、愛情深いコメントをしているだろうか?

[] 私は、たとえ恥ずかしいか、謙遜にさせられるとしても、アフェクションを示しているだろうか?

[] 私は何であれ自分にとって一番大切な物や、一番守ろうとしている物を喜んで分け合っているだろうか? 私は、時間を与え、心を分かち合い、他の人に開き、メイトや愛する人を分け合い、人間関係や友達関係に他の人たちを交え、他の人が必要としているという理由で、自分にとって難しいことをしているだろうか?

[] ホームの誰かが困難な時を通っている時、私は彼らの試練や困難を自分のそれと同じように扱うだろうか? 私は彼らのために祈り、励ますだろうか?

[] 私が一番最近、他の人への愛を求めて主に祈ったのはいつだっただろうか? 私が一番最近、誰か他の人を、主が見られるように、主の目で見られるよう助けを求めたのはいつだっただろうか?

[] ホームに誰かウマの合わない人がいるなら、私はその人との相互関係にもっと愛を注ぎ込むためにどのような実際的ステップを踏めるかを主に尋ねるだろうか? 例えそれが難しい時でも、あるいは難しい相手とでも、私は愛の律法に生きるために積極的に戦うだろうか?

[] 私は本当に、イエス、他の人、それからあなたという原則に従って生きているだろうか?私は実生活のすべての面において、イエスと他の人たちを優先していると心から言えるだろうか? それとも、何かの面で他の人たちよりも自分を優先しているだろうか? もしそうなら、それはどの面だろうか、そして、順序を正すために何ができるだろうか?

[] 他の人たちのために祈る時、私は自分をその人の立場に置いて、自分がその状況にいるかのように祈るだろうか? 私は祈る時、感情移入をしているだろうか?

[] 誰か他の人に良い事が起こった時、私はそれについて共に喜び、うれしさを表現するだろうか? それとも、逆にねたんだり、悲しんだりするだろうか? 他の人たちの喜びは私の喜びでもあるだろうか?

[] 私は他の人たちの意見や好みを尊重し、必要な時は彼らのインプットを求めるだろうか? また、他の人とカウンセルする時、私はその人が言うことを尊重し、考慮に入れるだろうか?

[] 私と一緒に暮らしている人たちは、何かの面で必要があるか、助けや祈りを必要としている時、私を頼りにできると感じているだろうか? 人々はそういった面で私にアプローチしやすいと感じているだろうか?

[] 私は他の人たちが困難な時を通っていて、あまり良くやっていないように思える時も、彼らへの信仰を示すだろうか? 私は彼らに、勝利のための信仰や、彼らが最後までやり遂げられるという信仰を持っていることを示してあげるだろうか?

[] 私は一緒に住んでいる人たちを感謝し、言葉や接し方によって感謝の気持ちを表しているだろうか? 私は彼らゆえにちょくちょく主を賛美しているだろうか?

[] ホームで何かが欠けている時、たとえばデボーションの時間が本来あるべきほどインスパイヤリングでない時など、私は誰か他の人が「問題を解決」するのを待つだろうか、それとも物事をより良くするために自分の分を果たすことで、自分自身が解決策の一部になるだろうか?

頼りにできる助け!

  219.(イエス:)天国には、愛を与え、愛の律法に生きるという面であなたを助けられる者たちが大勢いる。わたしは以前、キューピッドのような赤ん坊の天使としてケルビムを思い描くという概念は不正確だと言った。なぜなら、ケルビムは実際、力強くパワフルな天使だからだ! だが、天国には、地上で固定化された概念になっているキュービッド、愛を携える者に近い者たちもいる。愛の道においてあなたがたを案内するためにいる、「愛の妖精たち(ラブ・フェアリー)」と呼ぶような者たちがたくさんいる。

  220.彼らは何なのだろう? 彼らはわが愛の化身だ。彼らは小さなヘルパーになり、あなたを導き、塗油し、他の人たちに愛を注ぎ出したいという願いを与えるために、わたしの愛から造られた。彼らは女性の姿をしており、あなたを矢で射ったりはしないものの、ひらひらと舞って、あなたの心に他の人たちへの愛を置き、愛を与えたり分け合ったりするための方法を思いつかせる。

  221.彼らは、天使や、昔からの霊的存在ではないので、ずっと昔からいるわけではない。わたしはファミリーに愛の律法の完全な真理を与えた時、彼らを創造した。彼らが愛から造られていることを奇妙に思ってはいけない。わたしは地のちりから人を造り、あばら骨からイブを造った。あなたがたは地の存在なので、わたしは地の材料を使ったのだ。だが、霊の内では、わたしは霊的力から霊的存在を造ることができる。そういうわけで、わたしは純粋な愛からこれらのヘルパーたちを巧みに造ったのだ。

  222.彼らはロマンチックな愛のためだけにいるのではない。それどころか、それは彼らの愛のごく小さな部分だ。彼らはわたしが持つすべての愛、数多くの側面を持つ愛であなたを霊感し、満たす。わたしの愛はあなたを花嫁として愛するが、子供として、友として、兄弟姉妹としても愛する。わたしの愛はすべての人にとって、すべてのものになれる。この愛の妖精たちはあなたがそうなるのを助けるのだ。彼らは、あなたが愛する必要のある人へわが愛を一服与える。

  223.彼らは周りにいるだけで助けになるだろう。彼らはわたしの愛から造られているので、そばにいるだけで、あなたの愛は人間の制限を超えて増し、あなたは超自然な力を味わう。彼らはまた、証しを助ける。失われた魂への愛はわたしの愛の一部であり、それゆえに、これらの存在もまた、愛情深い影響力を与えるのだ。

  224.あなたはすべての面で愛を与えるために、これらの愛の妖精たちの助けを呼び求められる。彼らはそのために造られているからだ。彼らはあまり語らない。どちらかといえば、感情、印象、精神的な導き、愛によって何かしようという心の中の「引き」を扱う。預言やメッセージを与えられないわけではないが、普通は与えない。話す時には、子供っぽく、いたずらっぽく聞こえるが、彼らは霊的な導きを通して、非常に複雑で大人のような感情を伝えることができる。だから、あなたは彼らを見たり聞いたりするよりも、その存在を感じ取らなければならないのだ。

  225.あなたが彼らを呼び求めると、一人がそばに来て、ちょうど小さな天使がするように、あなたの肩に留まる。彼らはあなたを導き、どこに、どうやって愛を与えるかを指し示す。また、彼らは絶えず愛のオーラを放ち、それがあなたの全身に降り注がれて、あなたに愛を与えさせる。また、同時に、あなたをもっと愛すべき人にし、他の人たちからもっと愛されるようにする。愛はそういうものだろう? あなたが愛情深ければ愛情深いほど、他の人たちもあなたをもっと愛したくなる。この妖精たちはそれをもたらすんだ。

  226.また、あなたのすべての有様と行動に愛をもたらしてくれるよう、愛の女王、わたしの母である聖霊を呼び求めるのを忘れてはいけない。

  227.アフロディーテも、あなたの肉体と、現世の感情的手段をはるかに超える愛を与えるための力をくれる、愛の霊的存在だ。聖霊とアフロディーテは、人のような見方をせず、人の心を見抜き、人を愛したいと願う天国の愛に向かって、あなたを開いてくれる。

  228.霊的なカタリ派たちもまた、愛の律法の武器の使用面であなたを助けようと待機している。彼らは愛の導き手として任命されているのだ。彼らは愛の律法の武器か、兄弟愛の武器いずれかの使用法についてあなたを助けることができる。両方とも愛に関係しており、彼らは愛を専門とし、ミニストリーとし、管轄としているからだ。

  229.愛の律法に生きることに関して、霊の世界を呼び求めるのは良いことだ。肉の内でできることではないと気づく助けになるのだ。肉と血には、自分よりも他の人たちを非利己的に気にかけるだけの愛はない。霊的助けが必要だと認めることで、あなたは、愛の律法の真理を通してわたしがファミリーに生じさせている超自然的な種類の愛を与え、受け取るための、正しい考え方を持つことができる。

さらに、愛の妖精について--ささやく者(ウィスパラー)たち!

  230.(イエス:)人は、彼らを見るなら、妖精のように描写するだろう。彼らは女性の姿となって現れることを選ぶが、実際、彼らは男性でも女性でもない。愛には性別はない。わたしの愛は優しく、最も小さな詳細さえも気づくが、宇宙の誰一人としてわたしよりも男らしい者はいない。

  231.彼らはわが愛の思いや感情をよく受け入れる者たちを探し出す。現在、彼らの任務は、あなたがたができる限りあますところなく愛の律法に生きるよう導くことだが、彼らは聖霊と同じように、受け入れられ、歓迎される所にしか入っていかない。

  232.あなたが彼らの助けを呼ぶと、彼らはチームになってやってくる。ある者たちは近くにいる兄弟たちや羊たちを探し出して、あなたのそばに引き寄せる。また、ある者たちはあなたの心と思いを、絵像、感情、思考で満たし始めて、他の人にわたしの愛を与えるために、わたしがあなたの前に置いている開かれた扉を通るよう、あなたを案内する。

  233.これらの存在は、わたしの愛で造られている。そして、わたしの愛が受動的でなく、活気に満ち、偉大なる力の源であるのと同様、これらの者たちも、人の目から見れば姿は小さく、華奢であるものの、あなたが愛によってどんな良いことをもする力を与えるためのエネルギーを持っている。彼らは自分たちを表すために、小さな女性の妖精という姿を選んだ。あなたのためのわたしの限りない愛は、宇宙最大の威力を持つ力であり、何でもできるものの、同時に、あなたがそれに委ねない限り、その力と威力は完全に現れない。

  234.これらの愛の妖精たちは小さく、あなたにわたしの力と強さを差し出すことしかできない。あなたが自分の感情や願いにも優って、何よりもそれをすべてほしいと決めるなら、わたしの力は彼らを通してみなぎり、あなたの思い、心、感情に姿を変え、すべてを征服する超自然的な力をあなたに与える。

  235.他の人にわたしの愛を示すのは小さなことに思えるかもしれないが、霊の世界では、実際、歴史上の人間の戦争をすべて合わせたよりも地を揺るがし、人生を変え、悪鬼を破壊する!

  236.これらの愛の妖精たちは、愛の律法の現れだ。彼らに委ねる人たちを変え、思いや感情を変え、愛がどれほどパワフルかという現実に対して心と思いを開かせるからだ。あなたはわが愛の律法が単純で小さなことと思うかもしれないが、それが受け取られ、実行されるなら、わたしに頼る者たちや、かつて与えられた内で最大の贈り物を受け取る者たちにわたしが差し出す否定できない実証として、不可能を行い、決して破れない団結の絆を造り出し、世界を変えるわが愛の力を放つ力の源となる。

  237.この愛の妖精たちは、ささやく者と呼ばれている。彼らはあなたのすぐそばにいて、あなたが助けを呼ぶとそこに行き、あなたを導き、わたしの愛を人生で一番の場所に置くよう思い起こさせる。また、彼らのささやき声を心に留め、暗くなりつつあるこの世に対してわたしの光と真理のより良い器に一歩一歩なっていくあなたに、わたしの霊の力と美しさを浴びせる。

  238.わたしはまた、あなたに将来の出来事をかいま見させるだろう。あなたが成長するにつれ、彼らの声もあなたの心の中で大きくなっていき、それらはあなたが永遠に渡って大いなるわざを行う時、あなたと共にいるだろう。これはただ、大いなる事の始まりに過ぎず、あなたの思いはそれを把握することさえできない。彼らの助けを、賢く、頻繁に使いなさい。そうすれば、あなたはそれらを貴重な宝として、また、わたしの心からあなたの心への贈り物として価値を認めるようになるだろう。(以上、メッセージ)

追加の読み物

  239.(ママ:)ここにあるのは、私たちの夫、主が色々な人たちに与えたメッセージの短い抜粋です。これもきっと、愛の律法を皆さんの兵器庫の中の、もっと使われ、実践され、磨かれた武器にするための助けになり、励みになり、霊感になるでしょう!

  240.(イエス:)一緒に働いている人たちに愛されていると感じさせたいなら、また、あなたが個人的にその人たちを本当に気にかけていると信じさせたいなら、あなたは実際に、彼らを個人的に気にかけなければならない。そして、それを示さなければならない。それをするには、まず、愛、憐れみ、関心、非利己的さを祈り求めなければならない。おのずと彼らへの愛と思いやりと気遣いが溢れ出るわけではないからだ。だから、まずどのように手を差し伸べ、互いの仕事関係や友情を築き、次にわたしが示すステップを踏んで実際にそれを行うには、鍵の力が必要で、「愛の律法」に基づいた本当の態度の変化が流れ出ないといけない。

*

  241.(イエス:)あなたには、正しくないとか、聖句に基づいていないとか、価値がないとか、正当でないとか、「健全な教義」でないという意味では、愛の律法について霊からはずれた態度は特に何もない。あなたが賛成しないものや、疑いを抱いているものは何もない。あなたは教義を信じ、わたしが与えた自由の意義がわかっており、あなた自身、それを感謝している。あなたは必要に気づいており、もし自分が愛の律法の性的側面を実行することを信じず、その自由を持っていない「普通の」クリスチャンだとしたら、恐ろしいほどの束縛につながれているだろうと気づいている。

  242.あなたに考え方の変化が必要なのは、愛の律法自体に関する点ではなく、あなたと、あなたのアプローチ、態度、その実践法であり、また、あなたがすること、しないこと、できること、できないことに関する点だ。あなたが「信じていない」ものは何もないが、あなたが実行していないことや、最低限しか実行していない事柄がある。そして、あなたも知っているように、ファミリーのこの日、この時代、この時にあっては、もうそれではやっていけない。行動が伴っていないのに、心の中でも、口でも、それを信じていると同意することはできないのだ。あなたの行動が愛の律法に矛盾していると言っているのではない。時々、そういう場合もあることはあるが。だが、おもに、あなたのすることは、必ずしも愛の律法の原則を完全に支持しているとは限らないということなのだ。

  243.ちょうど、従順と、それについてわたしが示したことと似ている。もはや、最低限の従順でやっていける時代ではないのだ。今は最後までやり、最大限、それに生きるべき時だ。愛の律法もそれと同じだ。なぜなら、愛の律法とその真の霊に従うこともまた、わたしの言葉に従うことの一部なのだから。

  244.正しいアプローチとは、愛の律法を見て、このように言うことではない。「ああ、いいねえ。それは素晴らしい。私に幾らか益がある。だから、私に合っていて、私にとってうまく行く時には、この原則を取ってそれに生きよう」と。どちらかというとそれがあなたのアプローチ、スタイルであって、今まであなたがやってきた方法、今でもやっている方法だ。それに対して、実際、あなたが愛の律法の真の霊にあますところなく生きるなら、あなたの態度や振る舞い、他の人たちとの接し方は、今よりはるかに愛や与える態度に満ちたものとなるだろう。

  245.本当に愛の律法に生きている時、あなたの態度はしもべのような態度になる。与える態度、周りを見て、他の人たちが何を必要としているか、どうすればそれを与えられるかを見る態度だ。愛の律法に生きることに関しては、それが「正しい考え方」であって、あなたはまだそのような考え方をしていない。けれども、あなたに本当に必要なのはそれだ。それを求めて祈り、そのために鍵を呼び求めるべきだ。

  246.あなたが愛の律法に生きないという意識的な選択をしたというのではない。しかし、その原則をあますところなく適用し、それに生き、この武器の使用において最先端を行くプロになろうという選択を一度もしたことがない。それは、「さて、自分にとってどんな益があるのか見てみよう」というアプローチとは非常に異なる。それは多くの面で、あなたが今までしてきた物の見方だ。つい反射的にそうしていたわけでさえない。

  247.そこから何を得られるか、自分にとってどんな得になるかを見てみようというのが人間の性質であって、あなたが愛の律法を個人的な益として見ることによって、それを感謝し、価値を認め、大切にし、それを批判したり疑ったり、けなしたりせずに良く言うようになったという点では、それにも利点がある。けれども、今はあなたにとって、霊の内でさらに先に進むべき時だ。「愛の律法はクールで、私はそれが好きで、満足している」という考え方を超えて、わたしの思いをよりあますところなく思い、「私は霊の内でも、行動においても、愛の律法に生きると決意している。私はこの武器の使用者としてプロになり、それをすみずみまで知り尽くし、その使用目的通りに使うつもりだ」という考え方に移行すべき時だ。

  248.今は、愛の律法の真の霊を身につけるべき時だ。そして、それは、謙遜、奉仕、与えること、自分よりも他の人を高めること、自分の必要より他の人の必要を優先することの態度なのだ。性的な面で愛の律法に生きるのもその一部だが、これはそのことだけを言っているのではない。あなたは個人の生活と性生活においてこの原則を学ぶ必要があるが、仕事上の生活、ホーム生活、弟子としての生活のすべての面においても学ぶ必要がある。

*

自由を維持すべく警戒している者でない限り、自由にあずかる権利を持つことはできない。--ダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)

  249.(イエス:)いつも自動的に同じ人たちの所に行ったり、お決まりのことをしてしまうのではなく、もっと新しいことをするという考え方を持つのは良いことだ。それは健全で、あなたをかき立てられた状態に保ち、わたしに、「ここですべき最善のこととは何ですか? 今、誰といるのが最善ですか?」と尋ね続ける状態に保つ。それは、ただ流れに任せて、何であれ、気分が向くことやその時に起こったことをするより良い。

  250.愛の律法をもっと積極的に使うためにあなたにできることがある。それは、パーティーに行く前に祈ることだ。大きなパーティーなら、一人残らずすべての人とフェローシップすることは到底できないが、特に努めて数分間話したり、ダンスしたり、隣に座ったりすべき人がいるかどうかをわたしに尋ねるべきだ。そうすれば、パーティーに行く時には、ちょっとした焦点とゴールがあることになる。それらの人としか時間を過ごしてはいけないというのではないが、そのための努力を払うなら、あとの時間は、罪の意識を抱いたり、何かやらずにいるものがあるのではというプレッシャーを感じたりせず、同時に、わたしがあなたや誰か他の人にとって大切だと知っている何かをやらずじまいになったりせずに、リラックスして、何でもその場で起こる事を楽しめる。

*

  251.週に一晩、相手の人に一番合っていると感じる方法によって、誰かに手を差し伸べるよう努力しなさい。ある人にとってそれはデートであり、また、ある人にとっては全くそうではない。愛の律法の要点とは、与え、分け合い、兄弟姉妹が助けを必要としている時にそこにいて、その人が一番必要とし、願い、感謝し、わたしの愛を感じるのに一番助けになり、団結を強めるものを与えることだ。

*

  252.(イエス:)あなたには与えるものがたくさんある。そして、たとえほんの少しの愛、ほんの少しのアフェクション、関心を与えるだけでも、大きな効果がある。

  253.わたしはあなたに、与えることの喜びを経験してほしい。見返りに何か得ることを全く予想せずに与えるのだ。それが一番本物の与える態度なのだが、それは最も難しいことでもある。けれども、実際、与えても何かの見返りがないということは決してない。色々な与え方は、色々な方法で報われる。すぐに返ってくるものや明らかな方法で返ってくるものもあり、また、あまり明らかでなく、時間のかかるものもある。だが、すべてが報われるのだ。それについては完全な信仰を持つことができる。

*

  254.(イエス:)真に他の人のしもべになるには、まず、わたしに対して真のしもべになる必要がある。あなたはわたしにすべてを与えなくてはならない。自分自身をわたしのものとして、わたしの所有物、持ち物、奴隷、家来として見なければならない。あなたは、自分が代価を払って買い取られた者であって、わたしがあなたを所有しているのだから、わたしがあなたに、他の人たちに仕えるよう告げるなら、わたしに仕えるのと同じように彼らに仕える義務があることを受け入れ、認めなければならない。わたしが言ったように、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである(マタイ25:40)。

  255.あなたは代価を払って買い取られた。その代価、その召しの一部とは、わたしのしもべになってわたしの命令に従うことだけでなく、すべての人のしもべとなり、他の人たちの必要にも従うという意味でもあることを、いつも覚えていなさい。

  256.必要を見たり、耳にしたり、感じ取ったりしたなら、それはその必要を満たすようわたしがあなたを呼んでいるからだ。あなたがすることはその時によって異なるかもしれないが、肝心なのは、あなたはわたしのものであり、あなたは愛の内に、愛の奴隷としてわたしにつがなれているので、自分を他の人たちのしもべとして、彼らの必要のしもべとして見ることは、あなたの義務であるという点だ。

  257.この考え方を取り入れ、それを頻繁に思い起こすなら、自分がわたしや他の人たちのために十分やっているかどうか、愛の律法に生きているかどうかを心配する必要はなくなる。わたしに仕え、他の人たちに仕えると決意し、これを時々することではなく、毎日のライフスタイルの一部にしてしまうなら、おのずとそれができるようになるだろう。

「天の思考パワーの賜物」より

  人生のあらゆる面で愛の律法を実践する。思考パワーの賜物は、あなたがたを他の人たちのしもべとする。愛をもってそれを使う者たちだけが、その力を与えられる。あなたがたの内で最も偉い者は、あなたがたのしもべでなくてはならない。わたしが与えているこの賜物は、あなたがたを大いなる者とする。他の人々はあなたがたと、わたしから与えられた力を頼りにし、場合によっては、崇拝せんばかりになるだろう。だから、あなたがたがこの賜物を謙虚さをもって使う事はとても重要である。また、この賜物をわたしが与えたのは、あなたがたの証しを強力にし、他の人たちをわたしのもとに導くためであり、要するに、それがあなたがたを他の人たちのしもべとするのだ。

  あなたがたの最初の反応は、愛と他の人のことを思う気持ちから出たものとなるよう、人生のこの面を強めなさい。しかし、それは一夜にして起こることはない。今、真に他の人と彼らの必要を第一におき、自分を忘れて他の人を気づかうことを実践し、あらゆる機会に与えなさい。自分の人生でもっと愛情深くなり、与えるようになる必要がある面をリストアップするよう、わたしに求めなさい。愛の律法の実践においてどの面が欠けているか、わたしに示してくれるように求め、それから、わたしからの助言を直ちに実行に移し始めなさい。そうすれば、あなたがたの最初の反応は愛のこもったものとなる。わが愛する者たち、それは可能であり、今わたしから与えられているこの賜物の力を真に持ちたいなら、必要である。(ML #3377:42.8, GN 974)

(イエス:)

  258.--あなたは全体的に、しもべであるという態度を身につける必要がある。どのような状況でもそれを予期しているという意味で、自分よりも他の人を高くするなら、あなたは他の人たちに仕え、助けることになり、その逆にはならないだろう。

  259.--あなたは、「小さなこと」が生じるたびに、もっと喜んで助ける必要がある。外に行く時のパートナーになるのであれ、プロビジョンや買い物の品を降ろすのであれ、誰かの皿洗いや子供の世話を代わってあげるのであれ、何でも。そのような事柄に対するあなたの自然な反応は、「私には時間がない」だ。さて、あなたも知っているように、「時間がある」人は誰もいない。けれども、あなたはただ、それはできない、するつもりはないと決め込むのではなく、少なくともこのようなことがあるたびに祈り、自分には時間があるか、進んでそれをすべきかどうかをわたしに尋ねるべきだ。

  260.--あなたは他の人たちにもっと気を配り、彼らの必要を予期して、会話している時や人と接している時に何を言うべきか、あるいは言うべきでないかをわたしに尋ねているべきだ。あなたは最近、時としてかなり鈍感になることに気づいた。わたしはあなたに、人々の心と思いを見抜く賜物を与えたい。あなたは今、自分の言うことが相手にどう受け取られ、どう影響するかに気づけるよう、会話の最中に「すべてのことをわたしに尋ね」、わたしにあなたを導かせ、チェックを与えさせることによって、この賜物を使い始め、磨き始めることができる。

  261.--あなたは、友達や、一緒に働き、接する人たちに対してもっと正直になる必要がある。それも愛だ。それも、手を差し伸べることだ。いわば何かを隠したり、無視したりする方が簡単だが、それは愛情深い方法ではない。それはあなたにとって、安全な方法、簡単な方法、時間の節約になる方法だ。だが、それは最善の方法ではない。どのようにすれば、愛と思いやりによってコミュニケートし、言うべきことを表現できるかを、わたしに教えさせなさい。

  262.--最後になったが、大切な点だ。あなたはフェローシップや他の人たちに手を差し伸べることによって非利己的に時間を与えるという面で、もっと人々に手を伸ばす必要がある。あなたは時々試みるが、それは犠牲なので、難しい。あなたは、自分には、いたい人といる時間さえほとんど時間がないのだから、あまり一緒にいたくない人や、どっちみち自分とあまり一緒にいたくない人と一緒にいることは、本当に難しいと感じる。それが難しいのはプライドゆえであり、利己的さゆえであり、恐れゆえだ。あなたはもっと信仰を持ち、わたしがこの面であなたを助けるよう、もっと頻繁に祈らなければならない。

  263.わたしは愛の律法をもっとあなたの祝福となるように使いたい。そして、それに生きることによって、あなたもまた、他の人たちの祝福となれる。あなたは、わたしがもたらそうとしている、より大きな団結を生じさせるプロセスの一部となる。これは自然と「そうなる」ものではない。これは、団結と愛と信頼の絆を築くために、それがどんなに小さく見えても、すべての人が自分の分を果たすことの結果として生まれるものなのだ。

  264.あなたが愛情深くないとか、人々に対して親切でないというのではない。一番親しい人や、一番近い友や愛する人以外の人たちと質の高い時間を取るというのは、絶え間ない戦いなのだ。けれども、努力する価値はある。だから、あきらめて、怠惰な「たまたまそうなったらそうしよう」という態度に陥ってはいけない。たとえ小さな事でも、何かして、実現させなさい。そうすれば、わたしはそれを祝福し、あなたはその成果を感じ取るだろう。

*

  265.(イエス:)あなたの一番の優先事項は、わたしとの時間と、わたしとのフェローシップであって、時には、わたしとの時間を十分取ることでわたしの願いをまだ満たしていないなら、他の人たちとしたかったフェローシップをあきらめなければならないこともあるだろう。だが、たいてい、あなたが兄弟姉妹とフェローシップし、彼らを愛することは、優先順序のリストの二番目でも、一番上にとても近い。あなたの仕事は為されなければならないので、それよりも上だというのではない。だが、それは幾分同じ水準とも言え、あなたはその二つの間で正しいバランスを取らなければならない。

  266.あなたが他の人たちに手を差し伸べ、愛に対する必要を満たしてあげ、同時に友情や誰かと一緒にいるという自分の必要も満たしているなら、あなたは両方の面でもっと霊感され、励まされ、従ってもっと生産的になる。あなたと仕事仲間や仲間であるメイトたちとの間で、物事が霊の内でもっとうまく流れ、相互関係が愛と思いやりで満たされているなら、ぶつかり合いや摩擦もないだろう。これはただの謙虚さや従順の練習ではない。それは、ある面であなたに譲渡を教え、わが霊に対してソフトにするものではあるが、同時に、私はそれを使ってあなたを祝福し、あなたを他の人たちへの祝福としたいのだ。

  267.仕事に打ち込むのは良いことであり、すべてのことに時があるが、遊ぶ時には遊びなさい。あるいは、誰かが来てあなたとフェローシップしている時には、その人にすべての関心を与えなさい。本当に大切で緊急なことをしている最中なら、その時はそう言いなさい。でも、そうでないなら、それを少し脇に置いて、コミュニケートしている人に完全に関心を集中させなさい。

レターリンク

戦いを愛することを学ぶ

[] 「チョコレート兵」について C.T. スタッド

[] 「バアルゼブブ--はえの王」ML #168:10-13

[] 「戦う者」 ML #551:18-42, 51-60, DB 13

[] 「中国の全共同墓地が自由にされる」 ML #1264:1–3, 15-16

[] 「いやしのために戦え」 ML #2072:81,83-87, 90-91, 93-96, 98-102, 104-106‚ 110-113, GN 229

[] 「問題と解決策!-パート4」 ML #3072:106-110, 116-118, 121–141, GN 702

[] 「1998年のママの個人的なゴールと祈りのリクエスト!」 ML #3165:83–86, GN 771

[] 「ビシッ、バシッ! チンピラ悪魔をぶちのめせ!」ML #3179:10-11, 52-57, 59-63, 71, 73-74‚ 76-78, 82-87, 90-91, 93–95, GN 785

[] 「断食の日の奇跡」 ML #3384:148-150, GN 976

[] 「貴石と宝石集、パート1」 ML #3416: 143-146, 151-152, GN 1003

[] 「戦術、パート1」 ML #3532:5–12, 17-50, 81-90, 117-132, GN 1123

愛の律法に生きる: 単にセックスだけでなく

[] 「われわれの愛の宣言」 ML #607:1-14

[] 「主の愛の律法に関する私たちの信条」 ML #2858:2, 4, 5, GN 555

[] 「説明を求める人への弁明」 ML #3016:41-44, GN 653

[] 「1998年のゴール」 ML #3160:77-84, 165-173, GN 765

[] 「主の愛の律法に生きる!-パート1」 ML #3201:1-2, 5, 10-31, GN 804

[] 「主の愛の律法に生きる!-パート2」 ML #3202:3-31‚ 42-51, 67, GN 805

[] 「主の愛の律法に生きる!-パート11」 ML #3211:18-22, 24, 100, 102-105‚ 108-122, 124-126, GN 814

[] 「カタリ派信者からの嘆願」 ML #3259:61-63, GN 860

愛の律法を適用する/現代版第1コリント13章

[] 「愛と憐れみへの祈り」 ML #75:1,17-18,20,26

[] 「ピンナップ、間違い、愛による世界征服!」 ML #151:46-50, 52–54

[] 「このうちで最も大いなるものは愛である! プライドではない」 ML #1371:52-53, 59-61

[] 「愛こそが最も大切なもの」 ML #1793:2-4, 10–11, 14–16, 21, 25-27, 33, GN 146

[] 「従うことは犠牲に優る」 ML #2418:39-42, GN 320

[] 「ホーム内でもっとアフェクションを持つ必要性」 ML #2857:5,8,10-12,15,18-19, 22-23,28,30,50, GN 552

[] 「愛の憲章!-愛の革命への呼びかけ」 ML #2963:14-23, GN 615

[] 「愛をもって互いに仕えなさい!」ML #2978:24-25, 27-30‚ 40, 47, 53-54, GN 623

[] 「新しい愛の日」 ML #3011:6-12, 51–54, 93-95, 148-154, 158-159, GN 648

[] 「1995年、国の状態」 ML #3017:133-141, GN 654

[] 「共に集いなさい、愛の内に!」 ML #3100:17-18, 21-24, 26-30, 32–36, GN 722

[] 「愛情深い親切さ」 ML #3237:6-13, 37-51, GN 840

[] 「謙遜なことをしなさい」 ML #3251:6-15, 109–113, GN 853

[] 「感謝の気持ちを示す」 ML #3254:4-12‚ 16–32, 43-65, 106-114‚ GN 859

[] 「貴石と宝石集、パート1」 ML #3416:75-83, GN 1003

[]  「直言、パート5」 ML #3503:103-108, GN 1091

“The Art of War, Part 6”—Japanese.